【岩波書店】
『ドン・キホーテ』

セルバンテス著/牛島信明訳 



 私は小さい頃から物語が好きだったし、それは今も変わりないことであるが、現実世界の自分はけっして物語の主人公などではなく、たとえ自分がどれだけ主人公みたいにふるまったとしても、現実との乖離がいや増すばかりか、ときには現実から手酷いしっぺ返しを食らうことさえあるということも、過去の経験から知っている。子どもというのは、えてして正義のヒーローを真似ることが好きだし、彼らは物語世界のなかでは間違いなく格好良い存在なのだが、それは自身の主観が未成熟な子どもだからこそ許されることであって、いい年をした大人が自覚もないままに、物語の世界と現実との区別もつかないほどのめりこむことはいろいろと問題があるし、現実世界で物語の主人公のように振舞ってもかえって周囲に迷惑がかかるばかりであることも、ふつうに考えればあたり前のことではある。

 遍歴の騎士が世界を舞台に活躍するという騎士道物語を読みふけったあげく、自分も遍歴の騎士となって冒険を繰り広げ、この世の不正を取り除いて名声を得ることこそが自分に課せられた使命だという妄想にとり憑かれた中年郷士、自分のことをドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗った男が各地で起こす愉快な騒動について、知らないという方はほとんどいないのではなかろうか。現代においてさえ、およそ不可能なこと、荒唐無稽なことに挑戦しようとする愚か者や道化を演じている自分のことを「ドン・キホーテ」と呼んだりすることがあるが、そうした表現のなかには、やむをえず踊らされている自分自身を皮肉り揶揄する一面と、それでも自分は正しいことをしているのだというある種の矜持とが入り混じった感情がある。本書『ドン・キホーテ』において、彼が旅に出かけるのは全部で三回。うち、最初の二回については「前篇」に、最後の一回については「後篇」にまとめられているが、じつはこのふたつのあいだには決定的な違いがある。それは端的に言うなら、自分が道化であることの自覚がどこまであるか、という点だ。

 言うまでもなく本書の面白さは、遍歴の騎士という虚構の存在でしかないものがまぎれもない過去の歴史であった、騎士道物語に書かれていることのことごとくが真実であったとかたくなに信じているドン・キホーテが、その狂気のおもむくままに騎士道を実践することによって生じる現実世界との摩擦であり、衝突である。前篇における二度の旅において、それこそ風車を巨人と勘違いして突撃するというあまりにも有名なエピソードが象徴するように、彼の目にはごく日常的な事物が歪曲され、騎士道物語の一シーンとして映っていることが前提となって物語が進んでいく。それは従士であるサンチョ・パンサがくわわった二度目の旅においても、基本は変わらない。ドン・キホーテにとって宿屋は城であり、羊の群れは合戦であり、床屋のもつ金だらいは伝説のマンブリーノの兜であり、故郷の村娘は世界一の美貌と純潔を誇る思い姫ドゥルシネーアへと変貌する。サンチョはむしろ、そんなドン・キホーテを諌め、現実に引き戻す役目を負っているが、騎士道物語を中心とする自身の主観こそが世界であると信じきっている彼にその声は届かない。結果、相手から袋叩きにあったり、恩を仇で返されたりとさんざんな目に遭うというのがオチであり、ドン・キホーテの妄想と現実とのギャップがこのうえなく愉快に表現されることになる。

 ひとりの男の妄想が、ごく平凡な日常を無理やり騎士道物語の世界へとねじまげていくという過程は、ときにこのうえなく自己中心的で、それゆえに傍若無人な振る舞いにもなる。騎士道物語のなかに、遍歴の騎士が勘定を払うシーンがないという理由で宿代を踏み倒そうとしたり、かと思うと旅をする者たちの素性に首をつっこんだあげく、勝手に悪人扱いして剣をふりまわしたり、正当な決闘の戦利品と称して相手の持ち物を強奪したりと、ともするとドン・キホーテ自身がとんでもない悪党のようにさえ思えてくることもあるのだが、なかでも面白いのは、彼にとっての妄想が現実によって凌駕されそうになると、「悪い魔法使いの仕業」という切り札を使い、自分の失敗を騎士道物語における、遍歴の騎士を見舞う苦難へと変換してしまう点だ。それも、自分が清廉潔白な騎士であるという強烈な自負があるがゆえに、当人でさえ自覚しない自己暗示のように作用する。騎士道物語において、騎士たちは人智を超える力を振るい、必ず邪悪なる者たちに勝利するのだが、彼の妄想もまた、それが妄想であるがゆえの高貴さをたもつ限りにおいて、彼をとりまく現実に常に勝利する。そういう意味において、ドン・キホーテはたしかに「遍歴の騎士」として成り立っていると言うことができる。それが彼以外の人の目には、ただの狂人であり、道化者にしか見えなかったとしても。

「――世間の人にはそれぞれ好きなことを言わせておけばよい。たとえこのことで無知な連中から非難されようと、思慮分別に富んだ人びとに責められることはないはずだからな。」

(『ドン・キホーテ』前篇(二)より)

 このように、ドン・キホーテの強烈な妄想によって成立していた本書であるが、後篇になるとその前提が大きく崩れてくる。というのも、後篇においては、彼の冒険がなぜか本として出版されており、道化者としての騎士ドン・キホーテの存在を多くの人が承知しているという土台ができあがっているからである。つまり前篇において、ドン・キホーテの妄想を支えるのは彼の主観ただひとつのみであったのが、後篇においては彼の妄想がはたらかなくなっても、周囲の状況が勝手に彼を妄想の騎士道物語へと引きずりこんでいくことになる。

 彼の妄想を逆手にとって楽しんでやろうというシチュエーションは、じつは前篇においてもその兆候はあった。ドン・キホーテと同じ村に住む司祭や床屋がなんとか彼を村に連れ戻そうと、憂国の姫君を演じて助けを請うという一連の計略がそれであるが、後篇におけるドン・キホーテの冒険の大半が、彼の道化ぶりを本で知った者たちによってなかば仕組まれたものとなっていることが、本書の大きな変化のひとつである。もちろん、彼の妄想がなければそもそもそんな演出も無意味ではあるのだが、本書の後篇においては、たとえばモンテシーノスの洞穴のなかで体験したという、およそ現実にはありえない話を真面目に語るいっぽうで、その体験が本当に現実のものであったのかという疑問を占い師にたずねてみるという側面も見せるようになっている。

 それまで自身のゆるぎない主観によって強烈な個性を発揮し、ともするとその妄想が現実をも凌駕しそうな勢いで遍歴の騎士という踊りを踊っていたドン・キホーテであるが、後篇ではむしろ自分以外の誰か意図によって踊らされている、という認識が強く出てくる。それは、周囲の人たちに対してそれまで加害者的な立場にあったドン・キホーテが、逆に誰かに弄ばれる被害者として位置づけられるようになっていると言うこともできる。作中作としての『ドン・キホーテ』やその贋作、ときには作家自身さえも物語のなかに登場させることによって、荒唐無稽な騎士道物語を否定するという本書の意図は、とりあえずは成功する。だが同時に、彼がいだいた狂気、現実世界に振りまいた強烈な妄想は、彼とのかかわりを通じて、じつは他ならぬ自分自身の問題として提起されていることに気づく。ドン・キホーテが陥った狂気――それは、本当に現実世界と対極に位置するものであったのだろうか。あるいは彼の語る、ときに理知的な印象さえ受ける整然とした思考の、どこまでが妄想に侵されたものだと言えるのだろうか。

「――この世にあっては、日々新たな現象が見られ、冗談がいつのまにか現実になったり、愚弄していた者が逆に愚弄されたりするものでございます。」

(『ドン・キホーテ』後篇(二)より)

 騎士道物語を愛し、騎士道物語を信じ、そして遍歴の騎士という孤高の存在をよみがえらせるために、自分自身が遍歴の騎士とならんとしたドン・キホーテの物語は、ある意味で理想が現実に敗れ去る作品である。彼の狂気は、そもそも現実の前に敗れ去る運命にあったはずの高い理想――弱きを助け、悪を倒すヒーローとしての理想像を追い求めるための原動力でもあったが、逆に言うなら、そうしたものに頼らなければ、今の世の中で理想をもちつづけるができないということでもある。ドン・キホーテという名の道化の姿をまのあたりにして、ふと心に湧きあがる感情は、けっしてユーモアばかりではない。(2010.11.11)

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