【国書刊行会】
『完全な真空』

スタニスワフ・レム著/沼野充義・工藤幸雄・長谷見一雄訳 

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 実在しない書物の書評を書くという試みは、以前に私のサイトにおいても、エイプリル・フールの企画として実施したことがあるのだが、じっさいにそうした偽書評を書くさいに、どのような架空の書物を想定すべきかという点が重要な鍵となることは言うまでもないことだ。私の場合、やはり私個人が読んでみたいと思う物語や、実在したら面白いだろうと思う人物のノンフィクションというふうに、書物における個人的な願望がその原動力となったところがあるのだが、いざ出来上がった書評を読んでみると、それはたしかに面白い内容だと自分でも思うものの、そのいっぽうで、この書評で書かれた本はどこにも実在しないのだという、妙に残念な感じというか、虚無的な感覚を今でもふと思い出す。

 書評というものが、その対象となる書籍があってはじめて成立するものだとするなら、存在しない本の書評は、何かの書評という体裁をとった「創作」だということに、理屈上はなる。そして、16冊もの架空の書物に対する書評を集めたという体裁の本書『完全な真空』は、そういう意味では純然たる創作物としてあつかわれるべき作品だと言うことができる。ただ問題となるのは、なぜ書評という体裁をとる必要があったのか、という点であるが、たとえば以下の引用のなかに、そのヒントの一端を見出すことができる。

 それゆえ必要になったのは――(中略)――何も無いことを書くということだった。だが、それにしても、そんな仕事に意味があるのだろうか。何も無いことを書くというのは、結局のところ、何も書かないのと同じではないか。

(『とどのつまりは何も無し』より)

 この『とどのつまりは何も無し』という架空の小説の書評として、本書はフィクションという嘘をつき続けなければならない作家が、それでも創造する作品に対して嘘を書かない、つまりは誠実であろうとする方法として「何も無いことを書く」という、矛盾したテーマに挑戦した作品であると評している。それはアイディアとしてはかなり興味深いものだと認めるものの、しかしながら本書がどれほどもっともらしい言葉を書き連ねようと、現実問題としてそんな作品が完成するとは思えない、というのも正直な感想である。あらゆるものについて否定につぐ否定をつづけたあげく、最終的には言語そのものが自己を否定してしまうという作品が、はたしてどういうものなのか、いったいどれだけの人がリアルに想像できよう。

 つまり、『とどのつまりは何も無し』という作品は、書評という形でしか表現しえない書物なのだ。そしてそうした視点で本書を読み進めていくと、これと似たようなアプローチで書かれた書評がいくつかあることに気づく。たとえば『てめえ』という作品は、作品と向き合う架空でない人物として想定された「読者」について語るというものであるし、『ギガメシュ』については、軍法裁判で死刑判決を受けたメーシュなる男が、牢獄から処刑場へと連れていかれるまでのことを書いた作品というあらすじがあるのだが、その作品のなかに人間のこれまでの英知のすべてを取り込んだと称する作家によって、本編の倍の容量の注釈がつけられているという。いずれも、文学作品のひとつとして完成したものをつくりあげるには、著者自身にとって――いや、どんなすぐれた作家であっても――あまりに無謀すぎるテーマではあるが、書評という形であれば、たとえ、それが架空のものにすぎないとしても、少なくともそのテーマの存在については形を与えることができる。そうした意図が、本書からは垣間見えてくる。

 純文学やSF、パロディ、実験小説、さらには文化論や宇宙論といった論文や、講演テキスト、作者が配って回ったというパンフレットのたぐいにいたるまで、じつにさまざまなジャンルの書物を取り上げている本書であるが、それら架空の作品のテーマとして共通するものとして、ある種の虚構をでっちあげるというものがある。もちろん、小説というのはフィクションであり、それがどれだけリアルな世界に根ざしたものであっても虚構にすぎないわけだが、たとえば『ロビンソン物語』においては、一人称の語り手であるセルジュ・Nという男が遭難した無人島において、空想で召使や侍女を次々と呼び出していって収拾がつかなくなるという話であるし、『親衛隊少将ルイ十六世』は、元ナチスの親衛隊将軍だった男が、ナチス時代にたくわえた軍資金をもとに、南米ジャングルの奥地に夢想のフランス王国を築き上げてしまうという内容だ。「NOSEX」なる未知のウィルスによって人間の性欲が失われてしまうという『性爆発』なども、けっきょくのところ性欲の消失という「無」のなかに、代わりにどのような文化が流れ込んでくるのかという点がテーマとなっている。

 論者自身がこの世に生まれてくる可能性について、その因果関係を両親の出会いからそれこそ人類生誕以前の次元までえんえんと語り続けていく『生の不可能性について/予知の不可能性について』にしろ、デジタル宇宙における人工生命プログラムであるパーソノイドたちが、神の存在について長々と議論していく様子を書いた『我は僕ならずや』にしろ、あるいは膨大な専門知識を駆使して、いっけんすると馬鹿馬鹿しいような宇宙理論をさも真面目な顔をして展開していく『新しい宇宙創造説』にしろ、実在しないものをあたかも実在するかのように取り扱う本書の文章センスについては相当なものがあり、ともするとその言説を信じ込んでしまいそうにすらなるのだが、著者にとって本書という書評集は、一種の「世界」をまるごと描くことに等しいものがあると言うことができる。ここに書かれている書評の対象たる書物は、現実には存在しない。だが、その周囲を注意深く塗りつぶしていけば、そこから何もないはずの「形」が浮かび上がってくるように、存在しないはずの本が立ち上がってくるのだ。それはある意味で、自分たちの生きる世界を再構築するに等しいものでもある。だがその「世界」の形の、なんと奇妙でワンダーに満ちたものであることか。

 通常ならば、すべて事柄は事実に基づくか、あるいは基づかぬか、虚偽かそれとも真実か――(中略)――と黒白は明らかなはずだが、ここにあるのは偽の真実と事実の虚偽とである。言い換えれば、それは同様に真実でもあり虚偽でもあるのだ。

(『親衛隊少将ルイ十六世』より)

 何よりも本書が人を食っているのは、他ならぬ本書そのものの書評が、この書評集のトップを飾っているという点だろう。じっさい、「書評という形でしか表現しえない書物」という評価などは、すでに本書のなかでされている自己評価の一部でしかなかったりするのだが、じっさいには存在しない本の書評集のなかに、実在する『完全な真空』という本の書評が載っているという状況――いったい、この本は本当に実在するものなのか、もしかしたら私が読んで書評した本書は、同じタイトルのまったく別の本ではないのか、などということをふと考えてしまう。現実と虚構の境界線が、このうえなく曖昧になっていく感覚を、ぜひ味わってもらいたい。(2012.09.06)

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