【新潮社】
『最後の晩餐の作り方』

ジョン・ランチェスター著/小梨直訳 



 もし、一流の料理人もまた芸術家であるとするなら、彼らは他の芸術家、たとえば画家や彫刻家、作家、音楽家といった人たちよりも、その才能を後世にまで語り継ぐことが難しい、という意味では不遇な立場にいるのかもしれない。なぜなら、その判断材料である料理は、基本的に食してしまえばあとには何も残らない、その場かぎりのものだからだ。

 それでも、その料理人が存命中であれば、あるいはじっさいに自分の口で味わうこともできるかもしれない。だが、もしその料理人が亡くなってしまったら――あとはそれを食した人々の記憶をたよる以外に、彼の才能を判断するものがなくなってしまうことになる。もちろん、レシピは残るだろう。ちょうど、音楽家が自らの生み出した曲を楽譜に書き残していくように。だがレシピの形式は、楽譜ほど体系だっているわけではなく、たとえレシピどおりに料理をつくれたとしても、それがかつての料理人のつくった料理の再現となるかどうかは、楽譜から曲を再現するより難しいと言わねばなるまい。

 現在、音楽にしろ絵画にしろ、現存のそれをきわめて精密な形で複製し、保存する技術を私たちはもっている。だからこそ私たちは、現物こそ観たり聴いたりすることができなくとも、写真やレコードといった複製品を通じて、その才能に間接的にではあるが接することができる。だが、一流の料理を保存するという技術については、今も昔もほとんど進展がない。そういう意味で、料理人という名の芸術家は、常にその饗宴の瞬間のみに生きることを宿命づけられた存在であり、いわばもっとも「不在」に近い場所に立っている芸術家であるのかもしれない。そして、ほんのわずかな時間しかその存在を許されず、基本的に消滅することを前提としている料理こそ、あるいは至高の芸術であると言っていいのかもしれない。

 作家の姿勢、才能のほど、および功績は――作家が大塊であるとするならその高度を求めるのに必要な三角測量の基点は――じつは不可能、実行不能、入手不能な、禁制、禁止、否定の領域にあるのではないかということに、瞬時にして思い至る。――(中略)――芸術家の生涯の最高傑作とは、もはや試みることすら不可能と彼自身が悟った作品のことである。

 本書『最後の晩餐の作り方』は、いっけんすると料理エッセイを思わせるような書き出しである。四季折々の食材、ヨーロッパ各地で食することのできる料理の数々、その歴史、そして料理方法について――自らの過去の思い出をまじえながら、こうした食材や料理に関する薀蓄を披露しつつ、自身のいだく美食の哲学を展開していくというその内容は、その序文にも記されているように「いわゆる料理書」ではない。だが、では何なのか、と問われると、これがまったくもって返答に窮してしまうのだ。というのも、本書を読んでいけばわかることだが、食材や料理やその料理方法などに関する知識を、まるで宝石のごとく随所にちりばめ、そのイメージを喚起することに長けていながら、本書の主題がどこにあるのかが見えてこず、なんともつかみどころのない、曖昧な雰囲気がただよっているからである。そもそも、本書のなかで長々とその薀蓄をたれている、この「私」という人物が何者なのか、それすらいつまで経っても見えてこないのだ。

 言ってみれば、本書が抱える最大の謎が、語り手自身である、というのが本書の奇妙なところなのだ。そして、そんなふうに「私」を意識したとたん、彼の語る数々の薀蓄も、あるひとつの料理を語っていくうちに、その内容が思いもしない方向へとどんどん逸脱していくその軽妙な文章も、もしかしたら何か重要な事柄から、読者を引き離そうと意図してやっているのではないか、という疑問が生じてくることになる。少なくとも、ただの美食家、食通という感じでないことは、徐々にあきらかになっていく彼の奇怪な行動――付け髭や丸坊主の頭に鬘といった変装、尾行や盗聴行為――からも察しがつくことである。

 ただの料理エッセイ――とくにその方面に興味がない人にとっては、あくびが出るほど退屈な薀蓄エッセイでしかないと思われていた内容が、徐々にその様相を変貌させていく本書の展開は、ある意味で衝撃的ではある。どこか偏執狂的で、どこか倒錯した美学を信奉しているような観のある本書の語り手――そんな彼が自ら語る過去の思い出には、芸術家である兄やその両親、あるいはかつて料理を教えてくれた使用人たちが登場してくるが、そんな彼らがことごとく過去にのみ存在する人と化しているという事実も、なんだか不穏な印象をいだかせる。

 はたして、本書の語り手はいったい何を考えているのか、たびたび彼が「共同制作者」と語る女性は何者なのか、そして「共同制作者」というからには、何かを作ろうとしているのだろうが、いったい何を作り上げようとしているのか。それらの答えについては、ぜひとも本書を最後まで読んでたしかめてもらいたいところであるが、ひとつだけ言えるのは、本書の語り手が「不在の美学」「省略の美学」という考え方をもっている、ということであり、だからこそ彼は料理という「不在」にこだわっているということであろう。食せばなくなってしまう「不在の美学」、それが料理という芸術の真髄、さらにはこの世における美の真髄であるととらえたとき、私たちははじめて、そのタイトルである『最後の晩餐の作り方』という表現の、その真の意味を思い知ることになる。

 たとえば、キャヴィアの生みの親であるチョウザメが、何百万年ものあいだ現在の姿を保ち続けた地球最古の生き物であるとか、インカ帝国の時間の単位がジャガイモ一個の調理時間に基づいているとか、あるいは桃の種に含まれる化合物シアノーゲンが、ある特定の酵素との接触によって猛毒のシアン化合物となるとか、そうしたいっけんどうでもよさそうな料理に関する薀蓄も、あるいはそれを語ることがなければ永遠に「不在」となるかもしれない知識であるがゆえに、あえて証人――「共同制作者」としてとりあげたものであるとするならば、本書の存在そのものが、ある種の倒錯した美学の産物、ということになる。はたしてあなたは、この倒錯した美学の産物をどこまで受け入れることができるだろうか。(2004.07.25)

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