【中央公論新社】
『言わなければよかったのに日記』

深沢七郎著 



 ボクはよく、書評を書くという行為にかこつけて、たとえば「人間はこうあるべきだ」とか「こうでなければならない」などと、ずいぶん偉そうなことを書いてしまっているときがある。後になって読み返してみると、カーッと頭に血がのぼるほど恥ずかしくなって、(こんな書評をWeb上に載せておいていいもんだろうか)と思ったりするのだが、そんな書評を書いているボク自身がまた、他人の都合をよく考えもせずに行動したり、不用意に余計なことを喋ってしまったりするからタチが悪い。きっとボクのような人のことを「人間ができていない」と言うのだろう。自分勝手であることにさえ無自覚であるから、人から言われてようやく自分が大失敗をしでかしていること気づき、そのたびに(ああ、またやってしまった)と思い、(こんなことなら、いっそのこと何もしないほうがよかったなあ)と後悔するハメになる。でも、けっきょくのところ何か行動しないかぎり、まったく身動きがとれなくなることはわかっているので、今度は気をつけようと注意しつつも、それでもやっぱり失敗してしまう。そんなことを繰り返しているうちに、人間というのは成長していくものだと思うことはあるのだが、ボクはどうも、チットモ成長しているようには思えない。そして、

「イヤになっちゃうなあ、モウ」

 と、思わずつぶやいてしまうのだ。もしボクが日記を書くとしたら、きっとタイトルは「イヤになっちゃうなあ日記」となるに違いない。もっとも、深沢七郎先生が自分の日記につけたのは、『言わなければよかったのに日記』というのだが。

 本書は表題を含む短編集で、なかには自分の思い出をつづったものや、掌篇とも言うべき作品集なんかも載っているのだが、やっぱり「言わなければよかったのに日記」というタイトルが好きだ。深沢先生の書いた日記は、他にも「とてもじゃないけど日記」とか「変な人だと言われちゃった日記」とかいうのがあって、それぞれ良い味を出しているけれど、「言わなければ〜」が先生の人柄をもっともよく表わしていると思う。

 これがボクになると、むしろ逆になってしまう。もともと人前で何かを話すことが得意でないので、いろいろ人に言われているときはろくすっぽ返事もできないでいることが多く、それがまた相手に失礼になってしまうのだけれど、やっぱり黙ってしまうことが多いのだ。そしてなぜかプライドだけは妙に高いので、人と別れたあとにいろいろ考えて、ふと(そうか、こう言ってやればよかった)と後悔してしまう。

 深沢先生はいつも、まずいことを云っちゃったなあ、と後悔する。ただ正反対なだけなように見えるけど、これがじつはえらい違いで、なんと言うか、他人に対するこまやかな気配りができてしまう、ということなのだ。深沢先生はお亡くなりになった母親からも、「とりこし苦労をしすぎるよ」と言われたそうだが、その「とりこし苦労」が自分にではなく、他人に向かっているからこそ、たとえば石坂洋次郎先生のお宅に寄ったときに、持ってきた月見草を植えさせてくれるかどうか心配で、わざわざ松の木に登って庭の様子を見ようとしたあげく、石坂洋次郎先生本人に見つかってしまう、などという先生の失敗はユーモアに溢れていて、なによりあたたかく感じられる。

 深沢七郎先生のもっとも有名な作品に、『楢山節考』という小説がある。第1回中央公論新人賞を受賞した作品で、ボクはまだ読んだことがないのだが、当時審査委員だった武田泰淳、三島由紀夫、伊藤整といった文壇の大御所たちをして「恐ろしい小説」と言わしめたというその小説は、かつて日本で実際に行なわれてきた「姥捨て」の風習を明確に描いた作品として、舞台や映画にもなったのだという。自らの歯を岩で叩き折り、山に捨てられることを受け入れなければならない老いた母親――その現実を、文学的な表現で装飾したりすることなく、ただありのままに書き出したのが『楢山節考』であるとするなら、それはたしかに戦慄すべき作品なのだろうと思う。
 その『楢山節考』の評価に対して、先生は「意外だ」とおっしゃっている。「あんなふうな年寄りの気持ちが好きで書いただけ」とあり、残酷だとか、異色だとか言われることに、戸惑いのようなものを感じているようなのだ。

(ひょっとしたら、「楢山節考」には?)と思った。あの小説には、ボクが忘れてしまった人生観などという悲しい、面倒クサイものが、書こうともしなかったのに、形を変えて書いてしまったのではないかと思った。――(中略)――もしそうだったら、ボクは、また、人生観などという、暗い、深刻な、見つけたら叩きつけてやりたいような憎らしいものを、また、考えなければならないのだろうか。

 自分が好きだと思ったものをありのままに書き出すためには、その対象をありのままに受けとめるだけの冷徹さが要求される。それは自分を殺し、自分を含めたすべてを客観視することでもある。ここまで考えて、私は(もしかしたら?)と思うのだ。もしかしたら、先生は自分のことなどどうでもいい、と心のどこかで考えているのではないか、と思ってしまうのだ。もしそうなら、本書に溢れているのは意図的なユーモアといったものではなく、もっと別な何か――ニヒリズム的な笑い、とでも言うべきものなのである。

 先生は、おそらく小説家でありながら、自分が小説家であることに対してもっとも戸惑いを感じつづけた人なのではないだろうか。『楢山節考』で鮮烈なデビューを果たしながら、ついに『楢山節考』を超える作品を書くことがなかったと言われる深沢七郎先生の、もっとも人間味溢れる姿が、本書にはある。(2001.08.31)

ホームへ