【岩波書店】
『人形の家』

ルーマー・ゴッデン著/瀬田貞二訳 



 もし人形にも人生というものがあるとするなら、それはおそらく、自分がどんな子どもの手に渡り、どんなふうに遊んでもらったか、という思い出の積み重ねによって刻まれることになるだろう。
 人の手で生み出された、人の形をした玩具――私自身に人形遊びの経験があるわけではないが、人の姿を模したおもちゃに想像上の人格を与え、子どもたちにとってもっとも身近な集団である家族を演じさせるという「ごっこ」遊びが、とかく現実離れした空想をふくらませ、冒険や競争といった非現実へと目を向けがちな男の子にではなく、女の子によってなされるものであることは、フェミニズムの観点からも興味深いことではある。が、それはともかくとして、子どもたちに遊ばれることを糧として、人とはまったく異なった意思を持つであろう人形たちの世界というものを想像したとき、ここで紹介する『人形の家』に描かれている物語世界こそが、もっともしっくりくるのではないかと、本書を読み終えてそう思うのである。

 人形たちの物語にふさわしく、その冒頭で紹介されるのは人間ではなく、人形のほうだ。丈夫なヨーク材で作られた、小さな一文人形のトチーは、今の持ち主であるエミリーとシャーロットのひいおばあさんが子どもの時にも遊ばれていた、とても古い人形。今は他の人形たちとともに、ふたりの女の子が見立てた家族の一員として、その役どころをわきまえて静かに暮らしていたが、たったひとつの悩みの種は、自分たち人形の住む家が靴の箱の中だということ。彼らは今、自分たちが快適に過ごすことができる家がほしいと願っていた……。

 ところで、本書に登場する人形たちが、まるで人間のように物事を考えたり、こうしてほしいと願ったりすることについて、皆さんはどのように思うだろうか。人形というものは自分で動くことはできないし、思っていることがかりにあったとして、それを言葉にして伝えることもできない。人形はあくまで人形であって、けっして人間ではありえないのだから当然といえばあまりにも当然のことではあるが、子どもたちの豊かな想像力が、人形たちをひとつの家族と見立てて遊ぶことを思いついたとき、人形たちが、その本来の無機質な要素を超えて、家族を演じる確固とした人格を備えるように思えてくるのは、あまりに突拍子な考えだろうか。

 そういう意味では、人形たちの人格はおもに、エミリーとシャーロットによって与えられたものであり、本書はこのふたりの子どもたちの視点から描かれた物語だと言うことができるのかもしれない。だが、けっしてそれがすべてでないのは、たとえば、以前の持ち主の扱いがひどかったため、心配性でどこか卑屈なところのあるプランタガネットさんや、あまり多くのことを覚えていられない、いつもふわふわした雰囲気のことりさんが、軽いセルロイドでできた人形であることを見てもわかるだろう。なにより、かつては生きていた木でつくられたトチーが、まさに大地に根をおろして立つ木のように、自分が人形であること、そして人形としての幸せが何かということにまっすぐ目を向けている様子は、おそらくエミリーとシャーロットの、トチーへの想いをはるかに超えているものだ。

 本書と同じく人形を主人公とした小説に、梨木香歩の『りかさん』がある。古い市松人形「りかさん」の力を借りて、小さな女の子が、おしゃべりをしたり勝手に動きまわったりする人形たちの世界を垣間見る、というストーリーであるが、本書の人形たちは、あくまで自分では何も「する」ことのできない人形の域を大きく飛び出すようなことはない。だが、それだからこそ、彼らにゆいいつ許されている「願う」という行為が、よりいっそうの重みをもって立ち現われてくることになる。

 残念ながら、私もまた多くの大人たちと同様、人形の願いを感じることのできない人間だと認めなければならないが、本書のエミリーとシャーロットは、そうした願いを、ときどきなんとはなしに感じとることができるようだ。もちろん、ふたりとて人形たちの気持ちが完全に理解できるわけではなく、ときには人形たちの意に反することをしてしまったりすることもあるが、それでもなお、人形たちの「願う」行為が、人形の世界と人間の世界とを厳然と区切る境界を突き抜けて、偶然と言うにはあまりにもしばしば子どもたちの元に届き、その願いが叶えられていくという本書のストーリーに、読者はきっと不思議な感慨を覚えることになるだろう。

 それは、その気になれば、自分の思いついたことを次々と行動に移すことができる私たち人間が、その自由さゆえにときに自分を見失い、他人とのつながりがあってことの自分であることを忘れて不幸になっていくのとは違い、人形たちは、人間の子どもに遊ばれることによって生かされているという、人形としての存在意義を、その不自由さゆえに強く認識しているからに他ならない。そして、自分が他の多くのものの恩恵によって生かされている、という認識は、人形にかぎらず、すべての生きとし生けるものの幸せにつながるものでもあるのだ。

花とも人とも、またけものとも飛ぶとりとも友となって、
神よ、この世にうつろうわが一生を心みちたりてすごさせたまえ、
死が召すまで、この世にいとまつげるまで。

 人が時とともに年老いていくように、すべての新しいものは必ず古びていく。なかには古くなることで価値の出てくるものもあるのは確かだが、いくらその価値が認められても、本来の存在意義から断ち切られるような扱いを受けることが、そのものにとって幸せであるとは限らないのは、展覧会に出展された、ふだんは箱やガラスケースの中に大切にしまわれている人形たちの想いからも明らかだろう。本書のなかで、インスフリーおばさんの古いししゅうの技術が、人形の家の道具を修繕する役に立つという場面があるが、百年の時を経て、なお子どもたちに愛されるという、人形としての人生を歩みつづけている小さなトチーを見ていると、この世には、たとえどんなに多くの時代が流れ去り、あらゆる価値観が変わっていったとしても、けっして変わることのない真実が存在するのだ、ということを信じることができるような気がする。(2002.01.04)

ホームへ