【角川書店】
『消失グラデーション』

長沢樹著 



 哲学者ロラン・バルトが提唱した記号論的知見のひとつに「エクリチュール」というものがある。これはものすごく乱暴なとらえかたをするなら、私たちの生得的な言語体系や感覚という限られた枠のなかで、それでも私たちが自身の社会的位置づけとして選択する「ことばづかい」のことであると私は解釈している。たとえば、私が日本という国で生まれ育った以上、私の思考や感覚は母国語である日本語に依存してしまっている。何かものを考えるさいに、必然と日本語で考えてしまうというのは、これはもう個人ではどうすることもできないものであるが、そんななかで、私という個人がどんな「ことばづかい」をするのかは、選択の余地のあるものだ。

 単純に一人称を考えるだけでも、自分のことを「私」と呼ぶか「僕」と呼ぶか、あるいは「俺」と呼ぶかは、それをもちいる当人にゆだねられている。だが、一度自分を「俺」と呼ぶようになると、とたんに自分という人間は「俺」という言葉がもつイメージ――男っぽくてガサツなイメージに染まってしまう。この概念によれば、たとえばヤクザはヤクザだからヤクザっぽい「ことばづかい」をするのではなく、ヤクザのエクリチュールをあえて選択することで、自分がヤクザであると位置づけている、ということになるのだが、こうした言葉の影響力というのは、なかなかに馬鹿にならないものがある。ましてや、文章のみで世界を構築する小説においては、いったいどれほどの影響をおよぼすことになるのか――本書『消失グラデーション』は、そんな小説の可能性について、あらためて考えさせられる作品だと言うことができる。

 樋口は颯爽と廊下の角を曲がり、僕に一瞥をくれる事もなく女子トイレに入った。僕は少し呆気にとられ、女子トイレの入り口で立ち止まる。躊躇していると、扉が開いて樋口が上半身だけ出してきた。
「早く入ってきて」

 私立の名門、藤野学院高等学校を舞台とした学園ミステリという体裁をもつ本書は、当然のことながらそこで事件が発生し、探偵役となる何者かがその事件の真相をあきらかにするという展開となっていくのだが、そのあたりの配役については、冒頭の部分でかなり明確な位置づけが成されている。放送部所属の樋口真由が探偵役、そして一人称の語り手「僕」こと椎名康がその助手という位置づけだ。藤野学院では昨年の秋に何者かが校舎内に侵入し、女生徒の衣服などの持ち物が盗まれるという事件が発生しており、その対策として防犯カメラの設置といったセキュリティー対策が施されていたが、このふたりはそのセキュリティーに死角があることを知っている。そして樋口はその穴のことを学校側に申告するも、いっこうに改善されないことを知ると、今度は自前のビデオカメラを勝手に設置し、来るかどうかもわからない窃盗犯を相手に網を張りつづけるという行為をとり、いっぽうの椎名は、その死角を利用して女の子との逢瀬を楽しむという行為にいそしんでいた。

 どちらの行動も、ごくふつうの高校生というにはどこか過剰なものを思わせるのだが、椎名のカメラ設置はじつは時間を限定しており、それも、きわめて論理的な思考のもと、窃盗犯が現われるとすればこの時間帯しかないという時間をピンポイントに狙っているところに、すでに探偵としての資質が見えている。そして椎名は、自分の行為がはからずも隠し撮りされていた事実を当の樋口から知らされながらも、基本的に頭が上がらない。このシーンは、本書の序章にあたる部分で起こることであるが、こうしたふたりのやりとりだけでも、さりげなくではあるがふたりの関係性やその性格はもちろん、これから起こるであろう事件におけるふたりの役割的なものまで読者に印象づけることに成功している。このあたりの文章力もたいしたものであるが、もちろんこの印象づけも、本書のミステリとしての要素に大きく絡んでくることになる。

 もっとも、メインとなるミステリの要素は、いまだ捕まっていない窃盗犯ではなく、椎名が所属しているバスケ部にかかわることだ。女子バスケ部のまごうことなきエースでありながら、モデルとして活動できるだけの容姿とスタイルをもつ網川緑――しかしながら、三年生の選手が引退してからはその卓越した技量が逆にチームのプレイとマッチせず、しばしば他の選手や顧問との衝突が目立つようになっていた彼女は、女子バスケ部をやめる決意をするほど追いつめられた状態にあった。もちろん、顧問は網川の説得に入るが思うようにいかず、元エースの三年伊達絢子まで巻き込んで最後の説得が行なわれたその日、椎名は校舎の屋上から墜落したかのように倒れている網川を発見することになる。しかもその直後、椎名は何者かの手によって昏倒させられ、次に気がついたときは、倒れていたはずの網川の姿は消えてしまっていた……。

 はたして網川がどこへ消えてしまったのか、いや、そもそも網川は生きているのか、あるいはもう死んでしまっているのか。樋口が仕掛けたビデオカメラにはその日、ターゲットにしていた窃盗犯「ヒカル」の姿が映っていたが、網川を運び出しているような様子はなく、もちろん校内の監視カメラにも網川の姿はない。奇しくもカメラと衆人環視によって成立していた密室状態から、忽然と姿を消してしまった網川緑の謎というのが、本書のミステリとしてのメインではあるのだが、じつはこの謎を解き明かすのに必要なある事実が最後まで伏せられており、むしろその隠された事実のほうこそが強烈なサプライズとなるという構造をもっている。そのあたりのタネについては、ぜひとも実際に読んでたしかめてほしいところであるが、ともするとそのサプライズのほうばかりが印象に残りがちな本書が、あくまでミステリとしての要素を保持しつつも、ひとつの物語としての完成度――ここでは伏線回収や整合性といった、いかに読者を納得させるかという部分の完成度を保っているという点こそが、真に評されるべきところだと言える。

 ミステリのトリックの奇抜さを重視するあまり、現実性を無視した状況――たとえば、絶海の孤島やリアルでないゲーム性、あるいはトリックのためだけに建てられたかのような奇天烈な建物といった要素を用意する作品はいくつかあるが、本書の場合、たしかにそのトリックやサプライズは奇抜でリアルではないのだが、そのために無理やり物語や環境をつくりあげたという感じがほとんどない。学校にしろその生徒や教師にしろ、いかにも現実の世界にあってもおかしくないだけのリアリティがきちんと描写されているのだ。登場する人物にしてもさまざまな事情や心理をかかえた奥深さを感じさせる設定がそれぞれにあり、しかもそれらがミステリとしての要素ときちんと連動しているという整合性は、それこそ舌を巻くばかりのものがある。

 ふだんから人を寄せつけないオーラを発しつつも、必要であれば人当たりのよさをいくらでも演出し、椎名に対してはプチサディストともいうべき一面を発揮してこき使う樋口と、部活動にあまり熱心ではなく、ともすると女の子をとっかえひっかえするような節操の無さを見せながら、こと樋口に対してだけはいろいろな意味で振りまわされてしまう椎名――このクセのあるふたりの関係がどのようなものであるのか、という点もふくめ、本書に仕掛けられたサプライズをおおいに楽しんでもらいたい。(2012.12.03)

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