【早川書房】
『堕天使拷問刑』

飛鳥部勝則著 

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 雰囲気づくりというものは、私たちが思っている以上に大切なものである。たとえば、占い師が普通の格好をして、日中の歩行者天国のど真ん中で占いをすれば、その内容がどれだけ真実を語っていてもいかにも胡散臭そうに聞こえるのに、香を焚き染めた薄暗い天幕のなかで、それらしい服装やアイテムをもって占いを演じれば、たとえ何の根拠もないあてずっぽうであったとしても、すんなりとその言葉を信じてしまったりする。マジックや詐欺行為において、相手を自分のフィールドに引き込むというのは常套手段でもあるが、それは逆に言えば、私たちがいかにその場の雰囲気というものに影響され、流されてしまうかということを物語ってもいる。

 物事の真相を見抜くことの難しさは、こうした人間の心理とけっして無関係ではない。人間は主観の生き物であり、ときに自分の信じたいものだけを唯一の真実としてしまい、強い思い込みや偏った理詰めの思考が物事の真実をかえって遠ざけてしまうというのは、たとえば七河迦南の『七つの海を照らす星』や近藤史恵の『賢者はベンチで思索する』といったミステリー作品でも扱われていたテーマであるが、今回紹介する本書『堕天使拷問刑』は、こうした人間心理を徹底して利用していくことで、きわめてホラー色の強い物語として独自の雰囲気づくりに成功している作品だと言うことができる。

「不気味です。事件には何か、人智では計り知れない不可思議な……神秘的な要素がある」

 本書の基本はミステリーであり、現在と過去に起きた不可解な殺人事件の謎を解く、というのがあくまでこの作品の主軸となっている。それはたしかではあるが、通常のミステリーが、起こった殺人事件に対して徹底した洞察と分析を加え、その不可解な部分をひとつひとつ剥ぎ取っていくことで、最後に導き出される真実をいわば探り当てていくという手順をとるのに対し、本書の場合、そうした洞察と分析を容易に行なわせない状況をたくみに作り出していく、という方向で物語が進んでいく。一人称の語り手として、中学一年の如月タクマという少年を選んだのも、そうした雰囲気づくりのひとつである。そして、彼は自身の主観をまじえた物語の語り手ではあっても、探偵として殺人事件の真相を推理するという役割は与えられてはいない。

 不慮の事故で両親を一度に失うという不幸に見舞われた如月タクマは、母方の実家である大門家に引き取られることになったが、母方の実家のある町は、町というよりは村といっていいほどの僻地にあり、昔から人の出入りのあまりないきわめて閉鎖的な集落で、独自の因習や普通とは言えない古臭くて野蛮な儀礼などがごくふつうの常識として今もなお守られているようなところがあった。転校早々、クラスメイトのひとりから「ツキモノイリ」と言われて睨まれたり、机の中からヘビが出てきたり、靴箱の中に大量のミミズが詰め込まれていたりと、自分が余所者として歓迎されているわけではないムードに困惑するタクマは、「ツキモノイリ」とは難病に罹った人や、頭のおかしくなった人を指すこの土地独自の言葉であること、そして大門家は、そうした重病者の「憑き物」を落とす祈祷師の役割を、先祖代々つとめていることを知る。

 本書の舞台は山奥の僻地ではあるが、時代はけっして明治や大正といった昔ではなく、あくまで現代の話である。クラスメイトは携帯電話をもっているし、町に行けばきわめて現代的な繁華街もあり、洒落た喫茶店で一息いれることもできる。そういう意味では、よくある地方の町のひとつと言っていいのだが、そのいっぽうで、「ツキモノハギ」という名の集団リンチが公然と行なわれていたり、警察より影響力のある自警団のような職業がまかりとおっていたりと、どこか私たちの常識からはうかがい知ることのできない、きわめて特殊な論理が成り立っている土地であることが、徐々にうかがえるような展開となっている。言ってみれば、ミステリーにおける「絶海の孤島」や「雪に閉ざされた山荘」といった特殊な閉鎖空間として、町そのものを用意したのが本書なのだ。そして、こうした尋常でない数々のお膳立てのなかで、同じく尋常でない殺人事件が起こる。

 何か巨大な力で全身をねじられたかのように、体じゅうの骨が砕けて死んでいた祖父や、一瞬にして三人の首を切り落としたという怪奇――これが正統なミステリーであれば、さっそく探偵の出番となりそうな事件ではあるが、本書の場合、それらの殺人事件は祖父が召還した悪魔の仕業であるという噂が、まことしやかに伝えられていた。そしてじっさいに、悪魔召還といったオカルト的な要素がいくつも見出されることになるのだが、重要なのは、ふつうなら一蹴されるべき「悪魔の仕業」とか「悪霊の祟り」とかいったオカルト要素が、容易に信じ込まされてしまうような雰囲気づくりが、物語の当初から周到に用意されているという点である。そしてタクマが町にやってきてから、奇怪な出来事はますます拍車がかかり、そして大門家のひとりが無残な斬首死体として発見されるにいたる。

 はたして、祖父大門大造は本当に悪魔を召還することに成功し、そのために殺されたのか。そんな彼が森の奥に建てたという私設美術館は、アンチ・バベルを模したものなのか。ときどきタクマの前にあらわれる無口な少女は何者なのか。そしてこの町は、本当に天使と悪魔の最終戦争の戦場と化してしまうのか。きわめてホラー色の強い本書において、語り手ではあっても探偵ではないタクマは、物語をミステリーとしてではなく、ホラーとして――あるいはちょっとした青春小説として動かしていく役割を負っている。そしてそれゆえに、本書は本来のテーマであるミステリーという要素を巧みに隠すことに成功している。これは、以前に紹介した同著者の『殉教カテリナ車輪』にも共通して言えることだが、殺人事件のトリックとしては、謎が解けてしまえばきわめて単純で、どうということのないものであったりするのだが、そのなんてことのない事柄が、きわめて奇怪な形をともなって人々の心をかき乱し、結果として物事の真相から大きくはずれていくという展開こそが、本書の真骨頂だと言える。

「そうです。天使です。天使が悪魔に拷問刑をかけているのです。悪魔が堕天使だとしたら、堕天使拷問刑に処しているといってもいい」

 本書を読み終えてあらためて思うのは、ミステリーとホラーとの親和性の高さという点だ。怪異としか思えない不可能殺人を前にしたとき、もしそこに探偵役の人間がいれば、いずれそのトリックはあきらかにされ、怪異は怪異ではなくなるわけだが、そうでない場合、目の前の怪異が恐怖を引き起こし、その恐怖がさらなる怪異を増長するという悪循環が起きていく様子が、本書には書かれている。物語の舞台が、物事の真相を究明するのではなく、「悪魔の仕業」という歪んだ理屈を真実として選びとってしまうという状況を引き起こしているのだ。そしていつしか、恐怖を感じる側の人間が、逆に恐怖を与える側として――つまり自身が恐怖と同化していく。そういう点を評するなら、本書はミステリーである以前に、まぎれもないホラー小説だと言うことができる。はたしてあなたは、本書の一連の事件のなかに、人間のどんな本質を垣間見ることになるのだろうか。(2009.05.06)

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