【新潮社】
『ドラマチックチルドレン』

乃南アサ著 



 私が実家から遠く離れた東京でひとり暮らしをはじめたのは、東京にある某私立大学に合格したのがきっかけだった。それからもう10年以上にわたって、私は実家に戻って落ち着くこともなく、また今住んでいる町に完全に根を下ろすこともないまま現在に到るわけだが、もしあのとき、親元を離れて生活をする決意をしなかったとしたら――地元の大学に通い、地元の会社に就職し、ふたたび両親とともに暮らすという道を選んでいたとしたら、はたして自分はどうなっていたのだろうか、ということを、最近ふと考えることがある。
 別に自慢するわけではないが、私が合格した大学は、聞けば誰でもその名を知っている有名校だ。そして、私が勉強したいと思っていた事柄は、その大学でなければ学べない、とそのときは信じていた。就職先も、東京でなければ自分のやりたいことは見つかるまいと考えていた。そのこと自体は、今もなお変わらない。だが最近になって思うのは、もしかしたらそうした理由はただの辻褄合わせで、本当は心のどこかで、一刻も早く家族から離れたところに身を置きたいと強く願っていたのではないか、ということである。

「不登校」「ひきこもり」とかいう単語が、もはやごく普通の言葉としてあたり前のように使われている。だが、そうした言葉をたんなる文字としてではなく、身近なものとして――もしかしたら、自分がそうなっていたかもしれないものとして意識している人は、はたしてどのくらいいるだろうか。本書『ドラマチックチルドレン』は、著者初のノンフィクションであると同時に、さまざまな要因でつまずき、傷ついて、自分も家族も苦しめずにはいられない子どもたちの姿をありのままに見つめた作品でもある。そして、私が本書のなかに見たのは、もしかしたらそうなっていたかもしれない、まぎれもない自分自身の姿だった。

 非行や登校拒否、ひきこもり、拒食症や、ときには軽度の精神障害と診断された子など、社会のなかで「問題児」というレッテルを貼られた子どもたちを親元から一時的に預かり、同じ屋根の下で共同生活をさせる施設「ピースフルハウス・はぐれ雲」――川又直は医学の専門家でも、また教育者でもない、ただの民間人でありながら、人生のまだ入り口にあってすでに人生に絶望し、疲れきってしまっている子どもたちに何とか自信を取り戻させ、ふたたび歩き出す勇気を持たせられるようになれば、という強い思いから、この民間の施設を富山の万願寺に開いた男だ。地方でありながら開放的な風土で、農作業をつうじて自然に対する謙虚さをはぐぐむことのできるこの地が、子どもたちの教育には理想的であると信じ、毎日のように起こるさまざまな問題に頭を抱えつつも、まさに体当たりでぶつかっていく川又夫妻らの施設には、常に人の出入りが絶えることがない。

 そんな彼らのもとに、またひとり、問題児がやってくる。髪を見事なまでの金髪に染め、シンナーの常習犯でもある15歳の少女、中井恵――本書はおもに、施設の経営者である川又と、その後長きにわたってこの施設での生活をつづけていくことになる恵を主体に、「はぐれ雲」にやってくる子どもたちのあいだで起こるさまざまな出来事をつづっていくことになる。が、本書において、というよりも、「はぐれ雲」という民間施設において、彼らはけっして物語で言うところの主人公にあたるわけではない。

 入ってきたかと思えば出ていく子どもがおり、一週間や十日でいなくなる子も少なくない。だが、どれほど共に過ごす期間が短くても、子どもたちは必ずドラマを持っており、川又に何らかの印象を残していく。

 ともすると読書の世界に没入し、現実との接点を見失ってしまいがちな私に、本書は物語やドラマというのは、人間ひとりひとりのなかにこそあるものだという、あたり前の事実を突きつけてくる。自分の力でものを考え、工夫するということができない、注意されても自分がなぜ叱られるのか理解できない、ごくごくあたり前の生活のマナーを、何度教えても覚えようとしない――そんな子どもたちが何人もいるというとんでもない環境こそが「普通」である「はぐれ雲」は、その存在自体がすでにドラマチックだと言うことができる。『凍える牙』で直木賞をとって以来、人間ドラマに主体を置いた物語を書きつづけてきた著者にとって、その施設はまさに、現代に生きる人々の心を蝕んでいるさまざまな問題の縮図であり、だからこそフィクションとしてではなく、事実をありのままに、しかしあくまで乃南アサというひとりの主観として見つめていくノンフィクションとして書く必要があった。

 本書のなかにしばしば出てくる川又の、子どもたちやその親たちに対する姿勢や、教育に関する考えそのものは、とくに目新しいものではない。川又と似たような方針のもと、フリースクールやオープンスクールを営んでいる人たちの話を載せた『不登校・引きこもりから奇跡の大逆転』や、『骨太の子育て』のなかにもあるように、子どもたちの抱えている問題は、そのままその親が抱えている問題であり、親たちが変なプライドや見栄に縛られることなく自身をありのままに見つめ、変わっていけば、子どもたちもまた必然的に変わっていく。ただ、大人たちに、それまでの生そのものを否定するような変化を求めるには時間がかかる。だからとりあえず子どもを親から引き離し、新しい環境に置いてやる。川又のその教育方針は、けっして万全ではなく、なかには最後までまったく変わらないまま施設を出ていく子どももいるが、その大半は、親の干渉から解放された場での共同生活をつうじて劇的に変化していく。

 乃南アサといえば、『鍵』といった家族のつながりをテーマにした作品を書くいっぽう、『殺意・鬼哭』といった、殺人者の心理を深くえぐるような作品も書く多彩な作家だ。だが、たとえば犯罪に手を染めてしまった者と、不登校やひきこもりをつづける者とを比べたとき、その動機については究極的にはわからないという点、あるいは社会的には「落伍者」とみなされてしまうといった点など、じつはそのエネルギーが外に出るか内にこもるかの違いこそあれ、どちらも同じ問題がその根にあるのではないか、という気がしてならない。そして、犯罪者とそうでない者との差が、じつはほんのささやかなものでしかないのと同じように、不登校やひきこもりに陥ってしまうかどうかもまた、ほんのわずかの差でしかない。じっさい、ともすると内にとじこもりがちな性格の私には、自分と本書に登場するさまざまな子どもたちとの差がどこにあるのかわからない。もしかしたら、自分もあの中にいたかもしれない、という思いは、本書を読み進めていくにつれて強くなっていくのだ。

 入ってきた当初は施設の子どもと衝突したり、あるいは何ヶ月も脱走したりとさまざまな問題を引き起こした恵は、ともすると環境に流されやすい自分を少しずつ受け入れ、けっして器用ではないが変化していく。だが、「はぐれ雲」にやってくる子どもたちは今もなお絶えることはなく、川又たちの奮闘はこれからも続いていく。はたして著者は、そんな彼らの姿を見つめることで、何を感じ、どんな思いを抱いたのだろうか。(2003.04.17)

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