【筑摩書房】
『バベットの晩餐会』

イサク・ディーネセン著/枡田啓介訳 



 美しいものに感動し、心動かされるというのは、人間独自の心理のひとつだ。少なくとも他の動植物は、人間ほど美というものに敏感ではないし、自然のなかで生存し子孫を残すという意味では、むしろ邪魔な感覚だとも言える。にもかかわらず、人間だけがそうした感覚を発達させ、さらにはそうした美しいものを自分の手で生み出したいという強い欲求を、「芸術」という形にまで昇華させることができたのは、たんに人間という種が他の動植物とくらべてより贅沢な環境を確保していたから、言い換えれば、ただ生き延びるということ以外の事柄に関心を寄せるだけの余裕をもつことができたから、というだけでは説明しきれないものがあると思うようになっている。

 私たちの内には、美しいものを愛でないではいられない精神が、たしかに息づいているのを感じる。たとえ「芸術」というものについてまったく理解のない人間であったとしても、何かを見聞してひどく感動したり、強い衝撃を受けたりといった精神の動きが、良くも悪くもその人の「人間らしさ」を形成するものであることを否定することはできない。私の読書という趣味についても、けっきょくは私の心を揺さぶるような物語との出会いを求めずにはいられないという性質からくるものであるし、もしそうしたものがいっさい存在しないような世界になったとしたら、私の人間としての心は、あまりのつまらなさに腐りはててしまうに違いないとさえ思っている。

 芸術とは何かという問いかけに、適切な答えを返すことができほどの知識も教養も持ちあわせてはいないが、世界を美しいと感じることのできる人間の心が、その美を愛し、たとえ一瞬でもとどめておきたいという、きわめて人間的な欲求の発露によって生み出される奇跡こそが、本当の意味での「芸術」と言うべきものである。今回紹介する本書『バベットの晩餐会』は、表題作のほかに『エーレンガート』という作品の二作を収めたものであるが、いずれの作品も、そうした奇跡――けっして大々的なものではないが、人々の心を大きく揺さぶる奇跡の一瞬をとらえたものである。

 もはやあの誓いを思い起こす必要もなかった。自分たちの食べる物と飲む物のことを忘れているだけではなく、頭からきれいさっぱり捨て去ってしまってこそ、気持よく食べたり飲んだりできるのだと、彼らは悟ったのだった。

(『バベットの晩餐会』より)

 ノルウェー山麓の小さな町に暮らす、信心深いオールドミスの姉妹の家政婦として仕えてきたバベットが、富くじで当てた一万フランをはたいて本格的なフランス料理をとある晩餐会でふるまう、というストーリーの表題作『バベットの晩餐会』は、当然のことながらなぜバベットが、せっかく手に入れた大金を晩餐会の料理代に使うことにしたのか、そしてそんな本格的なフランス料理をつくることのできるバベットとはそもそも何者なのか、という疑問がメインとなっているところがあるのだが、この作品を評するにあたって焦点となるのは、バベットが家政婦として身を置いているオールドミス――マチーヌとフィリッパの家庭環境だ。ふたりの父親はプロテスタント系宗派の創始者で、この世の快楽はすべて悪と見なすという厳格な清貧主義をつらぬく人でもあった。そんな父親の精神はふたりの娘にもしっかりと受け継がれており、若い頃の美貌にもかかわらず、まるで修道女のごとき信仰の生活を、貧しく不幸な人たちへの施しや救済という形で実践しつづけることで精神の安寧を得ていた。

 現代のように交通手段も通信網も発達していない十九世紀、都会の文化や流行といったものとは無縁のノルウェーの田舎町という環境で、ふたりの姉妹はそれこそワインにいくつもの銘柄があることすら知らないような暮らしぶりであり、またそれが彼女たちの価値観のすべてだったと言ってもいい。そんなふたりのもとに、革命ですべてを失ってフランスから亡命してきたという過去をもつバベットは、その対極に位置する立場の人物としてとらえることができる。もっとも、そうした対極の構図がはっきりするのは物語のラスト近くであり、それまではひっそりと息を潜めるかのように、物語の影に隠れているという印象があるのだが、だからこそ一万フランをもって用意された晩餐会の料理が、ふたりの姉妹をはじめとする出席者にもたらしたちょっとした「奇跡」が強い印象を残すことになる。言うまでもないことだが、一万フランという金額ではなく、バベットの料理人としての創作意欲――まさに芸術と言っていい料理の腕前こそがその「奇跡」の鍵となっていることは言うまでもない。

「わたしはすぐれた芸術家なのです」と静かに語るバベット――それはけっして慢心や驕りから出てきた言葉ではなく、自分の料理人としての技量を心ゆくまで振るいたい、振るわずにはいられない種類の人間としての衝動から出てきたものだ。そしてその衝動は、しばしば事の善悪といった概念をいともたやすく超越してしまうような力を秘めていたりもする。もうひとつの作品『エーレンガート』においても、似たような芸術家としてカゾッテという画家が登場するが、そんな彼がその創作意欲をこのうえなく刺激させられるのが、そのタイトルにもなっているエーレンガートという名の女性である。

 面白いことに、この作品におけるエーレンガートには『バベットの晩餐会』におけるマチーヌとフィリッパと同じような共通点がある。それは、彼女たちがおよそ「芸術」の素養に無関心であり、それゆえにみずからのもつ美しさにもとことん無自覚であるという点だ。ドイツのとある公国につかえる武官のひとり娘であり、自身も馬や武器をあつかうというたくましさと、将軍家の家柄ゆえの気品と教養をあわせもつエーレンガートは、とある事情で公国の王子とその妃が二ヶ月のあいだ、人目をしのんで暮らすさいの侍女として同行することになった者のひとりで、それは「とある事情」を重く見た大公妃とカゾッテによって極秘に計画されたことであるのだが、たまたまカゾッテがエーレンガートの水浴姿を目にしたことが、彼の創作意欲をかきたてた直接の要因として語られている。

 バベットにしろカゾッテにしろ、その直接の要因はきわめて俗なものではあるのだが、彼らが本当の意味で「芸術家」としての魂を揺さぶられたのは、その対象であるふたりのオールドミスやエーレンガートの本質と化しているある種のひたむきさ――それはあるいは信仰心であったり、あるいは忠誠心であったりするのだが、そうした打算や損得を度外視することのできるひたむきな魂のありようがあったからは他ならない。

 以前紹介したオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』では、それまで純粋だったドリアン・グレイが自身の美しさというものに気づかされたがゆえに、それを手放したくないという欲望を生み出すことになった。「芸術」というものは、人間が人間であるがゆえのものであるがゆえに、ときに大きな悲劇に人間を巻き込むこともあるのだが、それとはまったく別の作用をもたらすこともあるのだということを、本書は雄弁に物語っている。その作用が生み出した奇跡の顛末を、ぜひたしかめてもらいたい。(2012.12.19)

ホームへ