【角川書店】
『中空』

鳥飼否宇著 



 ミステリーにおいて、探偵役となる人物はなぜ謎を推理し、正しい答えを導き出さなければならないのか、ということをふと考える。それがミステリーの定石だから、と言われてしまえばそれまでのことかもしれないが、そういうことであれば、たとえば典型的なミステリーの形として、探偵役となる人物はあくまで第三者としての立ち位置にいることが多いが、本来であれば何のかかわりもない殺人事件に対して、最終的には深く頭を突っ込むことになるのは、自分もまた犯人のターゲットのひとりであり、犯人を見つけ出さないと自身の命も危うい、あるいはこのままだと自分が犯人にされかねない、という状況でもないかぎり合理的ではないし、現実的でもない、ということになる。

 不可解な殺人事件が起きたときに、その不可解な部分を解き明かし、犯人を特定するという行為は、言ってみればそれを隠蔽しようとする犯人との知恵比べである。だが、仮にすべての謎があきらかにされたとしても、殺された人間が甦るわけではない。殺された人間にとっては、自分が殺された時点ですべてが手遅れなのだ。そういう意味において、ミステリーというのは死んだ人間の意思を決定的に置いてきぼりにしたまま進めていかざるをえない物語であり、その内に大きな空洞をかかえていると言ってもいいものである。

 今回紹介する本書『中空』は、ミステリーとしてはもっとも典型的な舞台設定と、もっとも典型的な展開を経ていく作品である。その舞台となる竹茂村は、車の通れない山道をずっと歩いていかなければたどりつけない陸の孤島であり、またそこに暮らす人々は、豊富な竹を主とした産業を収入源としているほかに、老荘思想にある「小国寡民」を理想とする、独自の生き方をつづけてきた人たちであり、それゆえに国の法より村独自のしきたりや因習を重要視するところがある。そして、そんなきわめて閉鎖的な集団のなかに、数十年に一度という竹の花を見にいくという名目で、語り手であるフリーカメラマンの猫田夏海と、大学時代からの友人で、自称「観察者(ウォッチャー)」の鳶山久志という余所者が訪れる。

 外界から遮断された空間、一地方に根深く残る古くからの因縁、そしてワトソン役の語り手と、鋭い観察者たるホームズ役の登場人物――ここまではっきりとミステリーとしての要素を匂わせる作品も珍しいが、そんな私たち読者の期待を裏切ることなく、奇怪な殺人事件は起こる。矢で射抜かれ、首を刎ねられた村人の死体、さらにその通夜の席で起きた服毒殺人に、首に致命傷を負って絶命した行商人と、連続殺人へと発展する今回の事件は、ミステリーのお約束どおり、いくつかのミスリードを経て最終的には探偵役である鳶山の推理によって解明される。それは、ともすれば誰にでもわかりそうなほど明快なミステリーの手順であり、それゆえにともすると、本書に対してひねりがない、ありきたりだという意見に落ち着いてしまいそうなところさえあるのだが、本書のなかで重要なのは、そうしたありきたりなミステリーとしての部分ではなく、その裏に隠された、もうひとつのミステリーの部分である。そして、その「もうひとつのミステリーの部分」は、本書の冒頭ですでに提示されているものでもある。

 それは、鳶山久志がそもそもどのような目的があって竹茂村に赴くことになったのか、という謎だ。

 本書の構成は、その大半が猫田を語り手とする竹茂村での出来事を追うものであるが、物語の冒頭と、いわゆる「解明編」の直前に、東京西荻窪のとあるバーに舞台が移ることがある。そこには猫田や鳶山と同じく、大学からの知り合いである友人ふたりがいて、今回の鳶山の竹茂村行きについて、そしてふたりが「悪巧み」と呼ぶその目的について思いを巡らせているのだが、竹茂村での連続殺人には直接絡むことのないこのシーンは、鳶山が本来探偵役としてではなく、それ以外の何らかの目的があったことを強調する役目をはたしている。

 そう、本書のなかで鳶山は事件に巻き込まれ、はからずも事件の真相を解明するという探偵役を引き受けることになるのだが、それ自体が彼の目的ではなく、それゆえに彼にとって探偵役を演じるという行為は、さほど大きな意味をもたない、ということだ。そしてそう考えたとき、本書のなかで展開していく、いかにもお約束めいた連続殺人とその謎解きという展開は、そのお約束の部分に読者の注意を向けるためのひとつの仕掛けだったのでは、という視点が生じることになる。何のために? もちろん、本当に隠しておきたいことを隠しとおすために、である。

 おいは空虚であることに、空っぽであることに意味があると言うちょるんじゃなか。空っぽじゃったら、そこになにかを入れられるとか、小賢しく考えてしまうのが人間じゃ。そうじゃなか。空っぽであることを、竹の身になってそのまま受け入れることが大切じゃと言うちょる。

 本書のタイトルである「中空」とは、文字どおり中が空である、ということで、本書の舞台となる竹茂村を象徴する竹の特徴でもある。そして同時に本書のもうひとつの特長でもある老荘思想、それも荘子の思想ともつながっていく。老荘思想について、その詳細を語るのはこの場では避けるが、相対主義を生きる私たち人間が、いくら主観に支配された現実をとらえ、その本質を見抜こうと思考を巡らせたとしても、より大きなものの見方のなかでは、その差異などごく小さなものであって、意味など無きに等しい――相対的な区別がなくなった境地という、きわめて哲学的な意味合いを帯びる本書のなかで、連続殺人の推理はたしかに展開していくが、それが人間の思考によって導き出されたものである以上、猫田の推理も鳶山の推理も、鳶山自身の目的そのものには何の影響もなく、いずれも空虚なものでしかない、ととらえるのは、あるいは深読みのしすぎだろうか。

 竹のなかが空洞になっていることに、どのような意味があるのかを考えてしまうのは、言ってみれば人間の業のようなものだ。そして、人間というまさにその特徴ゆえに、どれだけ思考をめぐらせたとしても、かならずしも正しい答えにたどりつけるわけではない。それは、ミステリーにおいて探偵役を担う人間が、人間であるというよりは、むしろ一種の記号であるということ、およそ人間らしさを備えていない、付加できないということとどこかでつながってもいる。そういう意味で、じつは本書はもっとも過激なアンチミステリーなのかもしれない。(2008.08.13)

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