【講談社】
『重耳』

宮城谷昌光著 



 「天才」という言葉には「天から授けられた才能」、つまり、もともと自分のものとしてあったわけではなく、より高次な何かから与えられたものという意味合いが含まれている。そして、こうした思想の根底にあるのは、他人が相当の努力をしても成し遂げられない事柄を、なぜかやってのけてしまう大それた力に対する一種の畏れの感情である。私たちは、大きな力にはそれ相応の責任がともなうことを知っている。言い換えるなら、「天才」というものは、自分の内にもともとあったものとしてとらえるにはあまりに重いものなのだ。だからこそ人は古来から、大きな才能を天から贈られたものとして解釈し、その贈り物に対して何を「お返し」することができるのかに心を砕いてきた。

 人は基本的に何かをプレゼントするときに、その相手から何らかの対価を得ることを期待する。逆に言えば、プレゼントされた相手は贈られたものに対して、それ相応の「お返し」をしなければという思いを無意識化に抱いてしまうものである。たとえ、贈った相手が何の見返りも求めていなくとも、何かを贈られたという事実は変わらない。それはある意味で相手への「借り」となる。そしてその「借り」は、贈り物が高価なものであればあるほど大きくなる。もし「天才」というものが、天からの贈り物であるとするなら、「お返し」をしなければならない相手は「天」ということになる。だが、ひとつの固定された人格としての「天」は存在しない。では誰に「お返し」すべきなのかといえば、それは自分以外のあらゆる他人、ということになる。

 与えられた「天賦の才」で得られたものを、広く万人へと還元していくこと――よくよく考えてみれば不思議な発想ではあるのだが、それを不思議だと感じてしまうのは、資本主義が幅を利かせている今を生きる私たちだからこそのものである。今回紹介する本書『重耳』は、中国の春秋時代を舞台に、最終的に天下に覇を唱えるにまでいたった諸侯のひとり、晋の重耳に焦点をあてた作品であるが、本書を読み進めていくうちに思うのは、天下の覇者となるという、とてつもなく大きな事柄を成すために本当に必要なものは何なのか、という点だと言うことができる。

「ただし、他人よりすぐれたものをもっていたら、けっしてそのものを誇ってはなりません。人は誇ったものによって、かえって滅ぶのです――(中略)――誇りの色は、主君をみて、臣下がおのずとだすものです」

 周王室の弱体化とともに、各地の諸侯が群雄割拠していた春秋時代、重耳が生まれた頃の晋は、じつはまだ一国として統一されておらず、内紛状態にあった。かつて、周王の戯言によって生まれたという伝説のある晋は当時、本家の翼と分家の曲沃に分裂しており、それぞれが晋侯の血族を立て、自分こそが主流だと主張しているというのが実状である。重耳が生まれたのは曲沃の国のほうであり、そのときの長は彼の祖父にあたる称という人物だった。じつは本書はタイトルこそ「重耳」とあるが、じっさいには称とその息子である詭諸、そして孫の重耳という、三代にわたる晋の歴史を描いた壮大な物語になっている。そして称にとって当面の懸念となっているのは、弱体化したとはいえ周の恩恵を得ている翼を滅ぼし、晋の主家として統一をはかることにある。

 黄土高原の小国にすぎない晋――しかも、国内の統一すらされていない晋が、いったいどのような紆余曲折を得て天下に覇を唱えるような大国として成りあがっていくのか、そしてその過程において、本書の主役たる重耳がどのような形で絡んでくることになるのか、というのが歴史小説としての本書の読みどころであるが、この作品を評するさいに押さえておかなければならない要素として、「天命」の思想がある。

 ここでいう「天命」とは、ものすごく乱暴な言い方をすれば「民意」ということになる。その地で生きる民衆の幸せのため、より良い政策をもって治めていく君主こそが国を統治すべきという考えは、古今東西で共通するものであるが、では何をもって「民意」をはかるのかを考えたとき、その抽象性ゆえに非常に漠然としたものになってしまうことは想像に難くない。ただし、ひとつだけはっきりしているのは、人としての能力の優劣が、かならずしも治世の良し悪しにつながるわけではない、という共通の認識である。

 本書を読んでいると気がつくことのひとつとして、登場人物たちが占いや自然現象といったものに神託や古事を見いだし、事の吉凶を判断しようとする点が挙げられる。たとえば、他国との戦争といった国家の大事のさいに、為政者はかならず卜筮、つまり亀の甲羅や筮竹をもちいた占いを行ない、その結果がじっさいの現実にも強い影響力をおよぼしていくようなストーリー展開が多い。重耳自身もまた、生まれる以前に呪術師によってその運命を予言されるという場面があり、まるで人の意思とは無関係に、物事がしかるべき方向へと流れていくかのような印象を受けるのだが、「天命」という独自の思想がそこに強く関与していると考えたとき、本書の本当の面白さ、著者の古代中国に対する理解の深さ、そのリアルさが見えてくる。

 たとえば、称が滅ぼそうとしている翼は、まがりなりにも晋の本家と認められた国であり、ふつうに考えれば称の行為は国の簒奪に他ならない。だが、晋という国が分裂状態にありつづければ、他の諸侯が攻め入る隙を与えかねない。そしてもしそんなことになれば、晋の民は路頭に迷い、苦しい思いをすることになる。それはけっして民意に即しているとは言えず、だからこそ彼は、翼を滅ぼすことが晋の民のためであるという「天命」を得ることを重要視するのである。逆に言えば、もし称が翼を滅ぼせなければ、その行為は「天命」ではなかったということになる。

 ここで、重耳という人物に目を向けてみると、じつはこれといった優れた部分の見当たらない、茫洋として目立たない凡人という位置づけに甘んじている。とくに、美麗秀麗で器量もよく、何もかもが完璧である兄の申生と、ときに人を驚かせるほどの才知を見せる弟の夷吾がいるせいで、どうしても冴えない印象を抱かれてしまう重耳は、しかしそれゆえに自分の力をけっして過信することなく、常に周囲にいる人たちの意見に素直に耳を傾けることができるという徳の持ち主として成長していくことになる。そして、この重耳のある種の謙虚さ――物事を自分の力で性急に解決しようとしない姿勢は、じつはじっくりと「天命」を待つことができるという美徳の裏返しでもある。

 何かを成し遂げようとするさいに、自分にどんな力があり、そのためにどのような手段を用いるのかということではなく、自分のやろうとしていることが「天命」に即しているかどうかが問われる本書の世界において、才知にとぼしい重耳こそが最終的に晋の名君として天下の覇者となっていく、というストーリーの絶妙さは、試しに自分がこの物語を書こうとしたときの困難さを想像すれば事足りる。強い力をもつ者、たぐいまれな才能や能力をもつ者が活躍する物語は、たしかにそれだけで物語を強く印象づけることができる。だが、とくに秀でるものを持たない者が、このうえなく大きな目的を成すという物語が、ここまで人を惹きつけるものとして完成しているのは、間違いなく著者の力量によるものである。

 重耳の生涯をふりかえってみると、自己主張をひかえた人であったといえる。重耳が覇者への道を歩いたのは、みずからの意志というより、臣下の意欲――(中略)――にのせられ、はこばれていったとみることができる。その点、重耳はじつに欲の寡ない人である。

 水野和夫の『資本主義の終焉と歴史の危機』にもあるように、資本主義の本質は強欲な資本の自己増殖システムである。資本を集め、それを元手に投資し、さらに資本を膨れ上がらせる――本書の底に流れる「天命」の思想は、それとは相いれない仕組みである。とくに優れた能力をもたなかったがゆえに、もっとも天に愛され、また人に愛された重耳という人物の、その不思議な魅力にぜひ一度触れてみてほしい。(2015.02.21)

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