【河出書房新社】
『コップとコッペパンとペン』

福永信著 



 たとえば、予想外の仕事ですっかり遅くなったある帰りの電車のなかで、ひとりの男が携帯電話で通話しているのに気がついたとする。本来なら迷惑この上ないその行為であるにもかかわらず、男が人目もはばからず電話しつづけているのは、その車両に乗っている乗客がまばら――それは、夜遅くという時間帯と、そろそろ終着駅に近いという事情が重なった結果であるのだが――なため、大きな態度に出ても問題ないと判断したためかもしれないし、あるいはその会話の内容が、あまり剣呑でないものであるからかもしれない。というのも、男の声はけっこう大きなもので、さほど注意していなくても耳に入ってきてしまうのであり、電話の相手に対して何か強く押すような口調であるのがわかるからだ。そのうち、「年寄りのもらう年金は、もともと俺らの税金なんだから、問題ねえんだよ」などという具体的な言葉が飛び込んでくれば、いったい彼は何の話をしているのだろう、と興味をもつようになるものであるし、そうなれば相手の姿形とか態度とか、そういった事柄について気になってきたとしてもおかしなことではない。

 だが、そうした興味をかきたてられたりはするものの、おそらく私はそこから何らかの行動に出ることはないだろう。私とその男とのあいだに、今のところ何の接点もないわけであり、そもそも男は携帯電話で話をしているだけである。仮に、その会話の内容が、たとえば近々行なう予定の――あるいは、今まさに行なわれようとしている――振り込め詐欺のことであったとしても、その疑いをたしかめるだけの捜査力も意志の力も、今の私には持ちあわせていないものである。おそらく、私という人間と、その周囲に溢れている大多数の他人とをつなぐものがあるとすれば、どちらかが一方的に相手を観察し、たいして意味のない情報を得て、そこから自分なりの人物像や物語を想像していくという、その程度のものだと言えよう。

「コップ」と「コッペパン」と「ペン」――この三つの単語を並べてみたところで、その意味のうえで共通するものは何ひとつない。にもかかわらず、この三つの単語を並べることによって私たちが感じずにはいられない、なんらかのつながりは、私たちが他ならぬ人間であるがゆえの想像力の賜物である。本書『コップとコッペパンとペン』は、表題作をふくむ四つの短編を収めた作品集であるが、およそこれらの作品において、物語としての筋を求めていくのは大きな間違いである。では、本書には何が書かれてあるのかと言えば、それこそ「コップ」と「コッペパン」と「ペン」という関係に代表されるような、つながりがないという関係で無自覚につながってしまうものたち、ということになる。

 たとえば、表題作の『コップとコッペパンとペン』に登場する早苗という女性は、ある男性と図書館で出会ったと思ったら、次の行ではもう夫婦となり、妊娠までしているという状況に置かれている。そしてまた次の瞬間には死んでしまい、夫は生まれた娘を残して失踪する。いったい、早苗はなぜ死ぬことになったのか、そして夫はなぜ失踪しなければならなかったのか――だが、娘はその理由を求めていろいろ遍歴していくものの、その理由は最後まで明らかになることはない。つまり、娘は早苗とその夫に関して、血縁関係にはあるものの、逆に言えば彼女にわかっているのはそれだけのことであって、肝心なことは何ひとつわかっていないということになる。そしてこの作品が、その冒頭から途中までは娘の視点で書かれたものであると仮定したとき、唐突に結婚したり死んだりしてしまう早苗の描写が、たとえば履歴書か何かを見るようなものとして娘のなかでは印象づけられている、という解釈が成り立つのだ。

 こうした、気になる謎をいくつか提示しておきながら、それに対して何らかの答えを導き出すようなことを周到に避けていくという手法は、本書の作品全体に一貫したものである。『座長と道化の登場』については、ある日突然、見知らぬ人に一方的に話しかけられてしまうことになる男女が、その強引さにひたすら戸惑うだけという内容であるが、必要以上に自分の心に入り込んでくるにもかかわらず、ある特殊なシチュエーション――たとえばデパートの試着室やトイレといった空間ゆえに、相手の顔もろくに確認できないままという状況がつづく。『人情の帯』にいたっては、ある特定の人物が物語の主体となることはなく、まるでそこで起こったことをただ観察する目に見えない視線があって、その観察によって得られた情報をもとに、何が起こっているのかを組み立てようとしているような作品である。

 いずれの作品にも共通するのは、瑣末なことについてはやたら詳しく書かれているにもかかわらず、肝心の部分――というより、物語が物語として機能するための基本的な部分がさっぱりわからない、という点である。ゆえに、何らかの物語性を期待して本書を読んだ人は、そもそも何か物語がはじまっているのか、と首をひねることになるのだが、重要なのは物語性そのものではなく、つながりそうでつながらない、しかし考えてみればいくらでもそのあたりに転がっていそうな、自分と他人の、あくまで他人であるがゆえの微妙な関係性なのだ。それこそ、後になって「あれはいったい何だったのか?」と首をひねるような、そんな希薄なまでの関係が、本書のなかにはある。

 父親探しは成就しない、なくした携帯電話は見つからない、待っている人はいつまで経っても来ない。それは自分と、自分とは無関係な他者との関係を考えたとき、唐突にはじまり、また唐突に中断される物語の断片でしかない。むろん、その気になってその他人との関係を深め、その人のそばについていれば、あるいは父親を見つけられるかもしれないし、なくした携帯電話を見つけ出す場面に遭遇するかもしれない。だが、それがいつになるかは誰にもわからない。私たちがふだん本を読むとき、無意識にその本の厚さを考慮するし、ページが進んでいけば、それだけ物語の終わりを意識することにもなる。しかし本書にかぎって言えば、そうしたしかるべき未来の予想はまったくといっていいほど役に立たない。なぜなら、そこにある物語――それが物語と言えるものであれば、の話であるが、そこには始まりもなければ、終わりがあるわけでもないからだ。あるのはただ希薄な、人間関係という言葉を使うのもはばかられる一瞬のつながりであり、それこそ私たちがふだんの生活において毎日のように触れては離れていく物語の欠片でもある。

 人は自分以外の大半の他人のことについて、ほとんど何も知らないままに生きていく。それはまるで、ふだんは水中にいて、あるきっかけを機に水面に顔を出すようなものであり、そこから得られる情報はごくわずかである。物語がつながっていかない、というのは、自分と他人とをつなぐものの断絶があるということ。だからこそ、何かがはじまるわけでも、また何かが終わるわけでもなく、終始傍観者的な立場でそこに起こることをただ眺めていなければならない私たち読者は、本書を読むことでそうした断絶を感じずにはいられなくなるのである。(2007.06.11)

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