【講談社】
『叫び声』

大江健三郎著 



 それはどのような性質の恐怖だったのだろう、日常生活の平穏のくりかえしのかわりに、ある晴れた日、突然に、暴力、悲惨、別れ、屈服の時がおとずれるという予感のもたらす恐怖だったのか? それとも逆に、老衰しての死の時まで、この日常生活のくりかえししかないということへの恐怖だったのか?

 今回紹介する本書『叫び声』の冒頭には、語り手である大学生の「僕」をとらえて離さない、「漠たる恐怖」のことが書かれている。それは、戦争や自然災害といった特別な状況によって、より具体的なイメージをともなってもたらされる死への恐怖ではなく、そうした不安要素のまったくない、平穏な日常を生きているにもかかわらず、当人の不意を突くようにして立ち上がってくる恐怖のことで、恐怖のもととなっている具体的な事象が存在しないがゆえに、その正体を突き止めることも、また対処することもできないたぐいのものである。

 語り手は自分でも無個性な人間だと自負しているような、とりたてて書き立てるべき特徴をもたない人物として登場するが、高校生のとき、ある娼婦と性交して以来、自分が梅毒に罹っているのではないかという強い妄想に悩まされるようになった。彼を担当していた医師は、梅毒恐怖症克服の一環として、とあるアメリカ人のヨットに乗って、ヨーロッパ旅行をすることを勧めた。そのアメリカ人、ダリウス・セルベゾフは日本でヨットを建造しているさいちゅうであり、その乗組員として何人かの日本人の若者を探しているのだという。語り手はその提案を受け入れ、ダリウスの家に同居することになった。そしてそこには、同じ目的で集まったふたりの若者がいた。ひとりはアメリカ・ネグロと日系移民の混血児であり、アルコール中毒でもある虎。もうひとりは在日朝鮮人で、自分のことを「怪物」だと思い込んでいる呉鷹男。

 自分たちが乗り込むことになるヨット「友だち(レ・ザミ)」号の完成を待ちながら、アメリカ人の庇護のもとに同じ家のなかで共同生活をおくった時期――それこそが自分たちにとっての<黄金の青春の時>であったと「僕」は語る。だが、その一方で「漠たる恐怖」によって足をすくわれるという思いは、ぬぐいがたいものとして語り手にからみついている。本書を読んでいて私がどうしても気になるところがあるとすれば、それはこのヨット旅行、このうえなく現実的なものとして目の前にある、日本という国からの脱出が、語り手をとらえて離そうとしない「漠たる恐怖」から逃れるための術として、どこまで期待できるものであったのか、という点である。

 虎にしても呉鷹男にしても、いま自分がいる環境が自分になじまないもの、自分がどこか異邦人であるかのような孤独を感じているという思いがあり、ヨット旅行に乗り出すことで、自分がまぎれもない自分でありつづけることができる、どこか別の場所にたどりつけるのではないか、という期待をいだいている。語り手にしても、梅毒恐怖症から逃れて清浄と平安の世界を取り戻したいという思いはあったし、それでなくとも現状を何がしか変えることができると期待していたかもしれないのだが、同時に、よくよく考えてみればこのヨット旅行そのものが、どこか非現実的な印象をまとっていることを否定することができない。別の言い方をするなら、その主催者であるダリウスの意図が見えてこない。ただの慈善で、若者たちをヨット旅行に連れていくなどということが、はたしてありうるのだろうか。

 平和な時代の恐怖というのは、対峙すべき恐怖の対象が目に見えない、何らかの言葉で形状しがたいものとしてとらえられている。具体的な恐怖の対象が存在しないのであれば、そのことに恐怖を感じることそのものが無意味であると理屈をこねることは可能だが、たとえば語り手たちが交通事故の現場に居合わせ、まさに目の前で怪我人が息をひきとるところを見てしまったときに、やはり恐怖は語り手を襲うのである。同じように、当初は何の支障もなさそうに思えたヨット旅行の計画は、ダリウスが幼児監禁事件を引き起こして日本から離れてしまったことを機に、ゆっくりと崩壊していくことになる。ヨット建造資金を捻出するために、残された三人はいろいろと手を打つものの、そもそも現実世界に足がついていないような、言ってみれば何者でもない若者に金稼ぎというきわめて現実的な行為ができるはずもなく、詐欺師に騙されたりしてことごとく頓挫してしまう。

「漠たる恐怖」を語る冒頭をはじめとして、本書全体を覆う雰囲気は、けっして明るいものではないし、物語としては若者たちの挫折を描いた作品である。だが、仮にこのヨット旅行が何の支障もなく実現できたとして、はたして彼らのかかえる問題は解決したのだろうか。彼らはあまりにも「ここではないどこか」に大きな期待をかけすぎていたようにさえ思えるのだが、あるいは彼らにとって、ヨットで「ここではないどこか」へ脱出するという期待感こそが重要だったのではないか、と思わずにはいられない。もしそれが実現したら、希望は希望ではなくただの事実と化してしまう。そして事実というのは、彼らがあれほど脱出したいと望んでいた現実に属するものなのだ。

 とすれば、およそ具体性の乏しかった三人の若者の願望はただの幻想でしかなく、彼らはその幻想をひたすらに望んでいたに過ぎなかったということになる。世のなかにはたしかなものは何ひとつなく、また永遠に変わらないものというのもありえない。そして唯一、たしかなことがあるとすれば、それは私たちがいつか必ず死を迎えるということだけだ。そんなふうに考えたとき、世界に何らたしかなものをもたない彼らの願望がただの幻想として終わってしまったときに、ただひとつたしかなものである死と結びつくことになったのは、ある意味必然だということになる。だが、それは本当に正しい選択、正しい解決方法であると言えるのだろうか。

 本書は物語の内容としては単純明快でありながら、しかしそこから何かを論じようとすると、たちまち深い霧に覆われてしまったかのような、つかみどころのないものがある。だが、おそらく死から想起される「漠たる恐怖」というものは、誰の脳裏にもふとよぎる性質のものだ。はたしてあなたは、その恐怖の叫び声を耳にすることがあるのだろうか。(2010.02.23)

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