【講談社】
『図書館の魔女 烏の伝言』

高田大介著 

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 人は見た目がすべてだ、という意見に対して、もろ手をあげて賛同することにはためらいを覚えるものの、その一方で私たちは、さまざまな場面において外見をもって、その人の価値を推し量ってしまうという事実を認めざるをえないところがある。そう、たとえ同一人物であったとしても、スーツを着ているか、あるいはカジュアルな服装であるかで、その人の印象が異なってくるというのはよくあることだ。そして、たとえ人間は見た目だけがすべてではないとしても、その内面を――その人の人間としての資質を知るためには、おそらく長い時間をかけてその人と付き合っていく必要がある。さらに言うなら、そうして長い時間をかけたとしても、その人のことを本当に理解できるわけではないし、そもそも私たちはその短い人生において、それだけの時間的余裕を与えられているわけでもない。

 人間の価値はけっして見た目だけで決まるわけではない。だが、人がいかにその外見に価値判断の決定をゆだねてしまっているか、言い換えれば、人がいかに目に見えるものに依存しているかということを意識しておくのは、じつは生きるうえでとても大切なことのひとつだと考えている。なぜならそれは、私たちが日常において陥りがちな偏見や、安易な価値観の押しつけといったものの、もっとも典型的な例に他ならないからである。一度ついてしまった価値観や印象というものは、なかなか覆すのが難しい。それは、柔軟な考えを妨げる大きな要因でもある。だが、意識することさえできるなら、何かの折にそうしたことを自身に問いかけ、認識を改めることも不可能ではない。

 今回紹介する本書『図書館の魔女 烏の伝言』は、同著者の『図書館の魔女』の続編ということになっているが、立ち位置としては「後日談」といったほうがふさわしい。というのも、前作は前作で物語としてはきっちりした形で決着がつけられており、およそ続編が書かれるような余地は、少なくともテーマという点では残されていないように思われたからだ。じっさいに本書では、前作の主要な登場人物はほとんど出てくることはなく、舞台となるのも東大陸の一ノ谷ではなく、西大陸のニザマ、それもある種の自治都市としての機能をもつ港湾都市が中心である。そう、前作において「高い塔の魔女」が引き起こした一大事件は、ニザマをはじめとする周辺諸国の勢力図を大きく書き換える歴史的転換点となったのだが、その激震の余波に良くも悪くも巻き込まれた者たちの物語として、本書は書かれている。

 長年にわたるニザマの宦官支配の構図が崩れたことによって、それまで力で押さえつけられる形となっていた辺境属州でのニザマ排斥の機運が高まり、その後ろ盾を失った地方官吏たちは、国外への亡命に一縷の望みを賭けるしかないという状況に追い込まれていた。物語は、とある高級官僚の姫君を護衛するニザマの近衛隊の集団と、そんな彼らを無事に目的地へと送り届ける役を請け負う「剛力」――山岳で道案内などを生業とする集団の逃避行の顛末を書いたものであるが、どうにか追っ手を振り切って、目的地である港湾都市クヴァングヮンの廓まで一行を導いたものの、じつはその廓こそがニザマの官僚たちを敵国に売り渡す売国奴の巣窟であったことが発覚、近衛隊も剛力たちも、報酬をもらえないどころか口封じのために殺されかけるという憂き目に遭う。

 権謀術数渦巻き、いくつもの打算や陰謀、裏切りや密告が横行する都市にまんまと飛び込むことになった一行が、いかにして敵の裏をかきつつ姫君を奪還するか、というのがストーリーとしての流れとなっていくが、同時にこの都市で何が行なわれているのか、そして誰が敵で誰が味方なのか、といった複雑な謎を少しずつ解きほぐしていく醍醐味が読みどころのひとつとなっているのは、前作と同様である。だが本書の場合、一を聞いて十を見通すような叡智の持ち主たる「高い塔の魔女」マツリカのような人物が、一行にいるわけではない。ゆえに近衛隊にしろ剛力たちにしろ、いくつか不審に思ったり、つじつまの合わないことに首をひねりながらも、その全容をなかなか見通すことができない状態にある。それでなくとも、もし見つかれば命がないような状況のなかで、ただ逃げ出すたげでなく、姫の奪還と、さらには殺された仲間の敵討ちすら成し遂げようとするには、あまりに分が悪い立場にある。

 ただし、彼らに味方がまったくいないというわけではない。だが、クヴァングヮンの地下を網の目のように走る水路を知悉し、そこを唯一のねぐらとして生きているストリートチルドレンの「鼠」たちにしろ、逃避行のさいに遭遇した、焼き討ちにあった村のただひとりの生き残りである子どもにしろ、いずれも力なき弱者、本来であれば何かの庇護のもとにあるべき者たちばかりである。しかしながら、そうした力なき者たちが、その勇気と知恵を総動員して、強大な権力や大きな暴力に対抗していくというのは、前作同様、王道であるがそれゆえに熱い展開でもある。そして本書は、そうした構図をことのほか意識させるようなところがある。

 それは、剛力や鼠たちの人としての節操に注目していることからも見て取れる。たとえば剛力たちにしてみれば、姫君を廓に送り届けたことで、その役割を終えているわけであり、約束の報酬がもらえそうもなく、さらに命すら危ういという状況において、近衛隊たちの姫君奪還に手を貸す理由は何ひとつないはずである。だが彼らは、「姫君を安全な場所まで送り届ける」ことが仕事の依頼であると主張し、あくまでその依頼をはたすことに固持する。それは剛力たちが他ならぬ「剛力」であるために、けっして曲げることのできない矜持であり、さらにそれは、金や報酬といったものよりも大事なものとして共有されているものだ。

 浮浪児たちの集団である「鼠」にしても、いっけんするときわめて実利的な――具体的には金の有無で物事を判断する集団ではあるものの、それは金銭欲というよりは、彼らが生きていくのに必要なものだからという側面のほうが大きい。そして、そんな生きるだけで精一杯という、何ももっていない彼らだからこそ、金品では変えられない人間としての節操を重要視する。それは、「裏切られない限りはこちらも裏切らない」「より弱い者に優先的に食料を配る」といった、ごくあたり前の人としての有り様ではあるのだが、そうしたいっさいが踏みにじられるような本書の舞台において、その資質はこのうえなく尊いものとして、剛力たちや近衛隊たちのなかにも共有されていく。それは、相手が人間の情とは無縁の鬼畜であればあるほど強い光を放つものとなる。

「……奴らを甘く見るなよ、情の欠片もない奴らだ。人を踏みにじり、同胞を謀り、仲間を裏切って汚辱としない。お前たちが一番の恥とする陋劣を働いてなお恥じ入らぬ奴らだ。だがな、だからこそ、他ならぬお前たちが膝を屈してはならないんだ」

 本書ではいっけんすると無力でしかない者たちが、その見た目とは裏腹に意想外な知識や洞察力を発揮して、窮地を脱するというパターンが何度か展開される。それは前作におけるマツリカから踏襲される、本シリーズの根本的なテーマでもあるが、本書においても、そのマツリカに近い役割を与えられた人物がいる。その人物は、マツリカ同様に言葉を発することが叶わず、それゆえに周りからは愚鈍だと思われていながら、しかしその奥にたしかな知性と観察眼をもちあわせ、それゆえに烏を操る鳥飼いとして「剛力」たちに重宝されている。何より彼――鳥飼いのエゴンは、物語でまっさきに登場することで、読者に強い印象を残すキャラクターでもある。マツリカとはまた違った形で、権力でも暴力でもない「力」をもって物事の真実を見通す壮大な物語を、ぜひ堪能してもらいたい。(2015.05.01)

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