【早川書房】
『ねじれた文字、ねじれた路』

トム・フランクリン著/伏見威蕃訳 

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 人間のなかにある「知りたい」という欲求が、ときに人間を動かす大きな原動力となるのであれば、「知りたくない」という欲求は、逆に人間を停滞させる原動力なのだと言うことができる。停滞と書いてしまうと、何もエネルギーを使っていない状態のように思えるが、こと物事を知ることという点についていえば、知ろうとすることにも、知らないままでいることにも、じつは多くのエネルギーが消費されている。私たちが何かについて知らないまま今にいたっていることの大半は、じつは私たちが「知りたくない」と思っていること――たゆまぬ努力で目をつむり、耳をふさいで知らずに済ませてしまおうとしていることなのだ。それゆえに、知らないものに目を向けるという行為は、ときにその人にとっては痛みを伴うものでもある。なぜならそれは、ある事柄について「知りたくない」と思っていた弱い自分自身と向き合うに等しい行為だからである。

 サイラス、おまえになにが足りないかわかる?
 勇気だ、と思った。
 臆病者の群れといると安心できるのも不思議はない。

 ミシシッピ州の一角にある自然の深い田舎町シャボットを舞台とする本書『ねじれた文字、ねじれた路』では、物語の中核をなすふたりの登場人物がいる。ひとりは自動車整備士のラリー・オット。だが彼の自宅にもなっている整備工場は、まるで時間が止まっているかのように古い道具しか置かれておらず、修理に訪れる者もいない。それはラリーが、二十五年前に起こったある少女の失踪事件の犯人だと目され、町の人たちからのけ者にされているからなのだが、今度は町の有力な地主の娘であるティナ・ラザフォードが行方不明となり、彼は当然のことのように警察から疑いの目を向けられている。

 もうひとりはサイラス・ジョーンズ。町の人からは「32」とか「治安官」とか呼ばれている、町唯一の警察職についている者だ。「32」という呼び名は、彼の野球チームでの背番号のことを指しており、それだけ地元では有名だったことを示す呼び名でもある。そう、彼はいったんは故郷を出たものの、大学野球時代に肩を壊して以来、紆余曲折を経て「集落の治安官」として故郷に戻ってきた身だった。治安官という肩書きとは裏腹に、仕事といえば製材所の交通整理を含む町の雑用係という毎日だったが、ある日、彼は植林地の沢のなかで高校時代のチームメイトであるM&Mの死体を発見することになる。

 本書を少し読み進めていくとわかってくることであるが、本書は人称こそ三人称で書かれているものの、じっさいはラリーかサイラスのどちらかの主観がメインとなっていることが圧倒的であり、それゆえに、彼らにとってあたり前となっている前提部分については意識して書かないようにしているか、書いたとしてもさらりと受け流す程度にとどめておく、という手法が多用されている。それは本書がティナ・ラザフォードの失踪事件、しいては二十五年前に起こり、未解決のままになっている少女失踪事件の真相をめぐるミステリーという形式をとっているという事情もあるが、本書においてそうしたミステリーとしての要素は、じつのところ瑣末な部分でしかない。重要なのはむしろ、ふたりの主要人物であるラリーとサイラスとの関係であり、彼らが背負い、あるいは隠してきている秘密の部分である。

 内気でホラー小説を愛好しているラリーと、元野球選手で正義感の強いところがあるサイラス――いろいろなところで対照的なふたりのあいだに、接点など見つけることすら困難なように思えるのだが、じっさいには彼らは子供ころからの知り合いで、また親友になりえたかもしれない仲であることが、ふたりの過去の回想から明らかになる。しかしながら、そうしたふたりの関係性を示唆する兆候は、じつはそれ以前から注意深く文章のなかに差し挟まれている。そしてその兆候は、おもにサイラスの主観のときに多く出てくる。

 たとえば、彼の留守番電話に吹き込まれていたラリーの伝言、たとえば、郵便ポストのなかにいたガラガラヘビを退治するさいの、ラリーから教わったヘビの知識――それは、町の人々のラリーに対する評判、それも、けっして良いとは言えない評判とは裏腹に、サイラスが彼の風評ではない性格や資質をよく心得ていることを暗に物語るものである。そしてそれは、そのままふたつの失踪事件の真実へとつながる細い道しるべにもなっている。銃で撃たれて重症を負ったラリーを発見したのも、もとはサイラスがラリーの整備工場の前を通ったときのわずかな違和感からであったのだが、そのとき彼がとった行動は、同僚に様子を見てきてほしいと連絡するというもので、一番近くにいた自分が直接向かうことはなかった。

 ラリーとサイラスは、お互いをよく知る仲だった。にもかかわらず、現在の彼らの関係はほとんど接点がないような状態になっている。はたして、過去においてふたりのあいだにどのようないきさつがあったのか。じっさいに本書のメインというべきなのは、むしろこの部分にこそあると言うことができるのだが、同時にそれは、言葉で簡潔に説明してしまうと、その本質を見失ってしまうだろうたぐいの、複雑に入り組んだ事情が隠されてもいる。そこには、白人と黒人というアメリカではおなじみとも言える人種問題や貧富の差の問題、親の職業的なものの問題からオタク的趣味をもつ者へのあからさまな偏見など、それこそいろいろな要素が見え隠れするのだが、けっきょくのところは、お互いのお互いへのわだかまりをどうやって解消していくか、という点に尽きる。ただし、その筋道はけっしてまっすぐなわけではない。

 いろいろな事情によって入り組み、ねじれてしまったふたりの関係――本書のタイトルとなっている『ねじれた文字、ねじれた路』は、まさにこのふたりの関係のねじれを象徴するものでもあるのだが、そこにひとつのテーマをあてはめるとしたら、この書評の冒頭で述べた「知りたくない」という人間のもつ気持ちが、いったい何をもたらすのか、ということになる。

 少なくともサイラスは、ラリーがふたつの事件の犯人ではないことを知っている。そしてそれは、自分が彼の友人だったということ以上の何かがあってのことであることに、読者はしだいに気づいていく。はたして、サイラスは何を「知りたくない」と思っているのか、そしてラリーは何を「知りたくない」と思っているのか――その謎が解けたとき、彼らの友情のなかにひそんでいた、二十五年にもおよぶわだかまりの理由も明らかになるという手法が、この物語を突き動かすことになる。ミシシッピ州の自然や風土などの緻密な描写をはじめ、そこで培われてきたはずの友情が、今回の事件を経てどのような地点へとふたりを着地させることになるのか、その結末をぜひ楽しんでもらいたい。(2012.09.30)

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