【講談社】
『コズミック』
−世紀末探偵神話−

清涼院流水著 
第2回メフィスト賞受賞作 



 私はとくにミステリばかりを好んで読むような読書家ではないが、「密室」と聞けばすぐに「密室殺人」という、ミステリにおいてはもはや王道とも言うべきトリックのことを思い浮かべるくらいには、ミステリも読みこんでいると思っている。「密室」という、外からは中を窺い知ることはもちろんのこと、何人も中に入ることのできない状況のなかで、「殺人」という、他人が介入しなければけっして成立しない事件が発生してしまう、という謎――現実世界において、それがどこまで実現可能かということはともかくとして、過去に多くのミステリ作家がさまざまなトリックを用いて「密室殺人」を手がけ、もはやトリックのタネも出尽くしたとさえ言われる現代においてもなお、密室トリックが生み出されつづけている背景には、「密室」と「殺人」という、けっして相容れないはずのふたつの要素が結びついてしまうことに対する神秘性のようなものも関係しているのではないか、とふと思うことがある。

 この世にある謎や不思議に人々が興味を示さずにはいられないように、いっけん不可能犯罪のように思える「密室殺人」もまた、人間の理性の力で閉ざされた空間を開き、謎を解明する、という意味で、これまで人類が歩んできた飽くなき探求心を象徴するものであると同時に、内側と外側とを区切る境界をとりのぞくという探偵の謎解きは、たんなるトリックの解明をこえて、ときに哲学的な意味合いさえ帯びているように思えてくる。「密室」とは何なのか、という問いかけは、あるいは人間とは何なのか、人はどこから来て、そしてどこへ行くのか、という究極の命題に通じるものだからこそ、人々は「密室」というものに惹かれるのだ、というのは、あるいは私の誇大妄想でしかないのだろうか。

 今年、1200個の密室で、1200人が殺される。誰にも止めることはできない。

 森純の『八月の獲物』の冒頭に出てくる「あなたに十億円差し上げます」という文句も驚愕ものであったが、本書『コズミック』の冒頭を飾る上述の犯罪予告状もまた、読者の度肝を抜くのに充分なインパクトを秘めていると言えよう。なにしろ、1年間に1200件の密室殺人である。単純計算しても、一日に最低3件の密室殺人を実現させなければならないことになる。しかもおそるべきことに、このミステリはけっしてギャグでもパロディでもナンセンスでもなく、しごく真面目な推理小説として書かれているのである。普通に考えれば、絶対に実現不可能であるはずの犯罪予告――だが、その予告状の差出人であるとされる「密室卿」なる正体不明の人物は、まるでそんな常識を嘲笑うかのように、全国各地で次々と密室殺人を敢行していくのだ。

 初詣客でごったがえす平安神宮における、人の壁によって生じた「密室」内で、被害者の首が切り落とされたのを皮切りに、あるときは空車になったタクシーを運転中のドライバーが、あるときはスカイダイビング中の俳優が、あるときは電話を通じて話をしていたまさにその相手が、生放送中の撮影技師が、生まれたばかりの胎児が、服役中の囚人が、立会い中の力士が、スペースシャトルの中にいた宇宙飛行士が、ほんの一瞬に生じた「密室」のなかで首を切られ、殺害されていく――日本国民の全員が被害者となる可能性があり、同時に容疑者にもなりえるという、まさに前代未聞の連続密室殺人事件を題材にした本書の最大の特長のひとつが、とにかくそのスケールの大きさ、壮大さにあることは間違いない。犯罪予告も未曾有ならば、1200年ものあいだ、誰ひとりとして解くことのできなかった密室の謎、という背景もまた未曾有であり、どのような状況にある密室にも自由に出現し、不可能犯罪をいともあっさりと実行していく密室卿もまた、まるで神出鬼没の超越者であるかのようである。

 時を同じくしてイギリスで起こった、「切り裂きジャック」の後継者と名乗る者による連続切り裂き事件、JDC(日本探偵倶楽部)に送られてきた、死んだはずの推理作家によって書かれた『1200年密室伝説』の原稿、平安時代や江戸時代といった過去においても、同様の連続密室殺人があったことを伝えるふたつの古文書の存在、自称1000歳の謎の老人――ありとあらゆる要素が、それまでの密室殺人の概念をはるかに凌駕するという本書の意図が、たんにそれまでにない空前絶後な密室殺人を取り扱いたいという、いわばギネスブック的な野心から来たというよりも、むしろこれまでの密室を一気に突き抜ける密室、密室を超越した、究極の密室を目指す試みである、と言うべきだろう。

 それは、本書の謎に挑むことになるさまざまなタイプの名探偵――新時代の犯罪捜査の旗手としてその存在を認められている、総勢350人におよぶJDCの総代、鴉城蒼司をはじめとする、数多くの個性的な名探偵たちが、弁証法や消去法、アナグラムや暗号解読、統計や懐疑論といった、これまでのミステリにおいて推理の材料とされてきたさまざまな要素を駆使してこの連続密室殺人に挑みながら、最終的には九十九十九(つくも・じゅうく)というメタ探偵によってすべての謎が明らかにされる、という展開を見てもわかると思う。本書の言葉を借りるなら「推理を超越した次元の超絶思考を駆使する」メタ探偵の存在は、本書が提示する謎が、もはや通常の推理では絶対に到達不可能なものであることを如実に表わしているのだ。だからこそ、本書にあるのは「読者への挑戦状」ではなく「読者への挑発状」であり、読者に対して「真相を看破することはできない」とあえて豪語するのである。

 著者である清涼院流水のミステリに関しては、とかく「問題作」とか「怪作」とかいった代名詞とともに語られ、ミステリ界において常に物議をかもしてきた、という話はいろいろなところで耳にしてきた。本書がミステリとしてどこまで完成されたものであるのか――その謎解きが、ミステリ愛読者をどこまでうならせるものであるのか、ということについて、私はあえて多くは語らない。というよりも、たしかにその謎解きはいくつかの解消されない問題を残すものであるし、それゆえに多分に著者のご都合主義的なところが見受けられたりするのはたしかであるが、そうしたあら探しが滑稽に思えるほど、本書には読者を惹きつけてやまないたしかな魅力がある。その荒唐無稽さ、広げられた伏線の規模、そして何より世界レベルにまで達する壮大な謎に対する挑戦、という意味で、本書はミステリというよりも、むしろアクの強いエンターテイメント小説と言うべき作品なのだ。

 謎などありませんよ。あるのは論理的な解決のみです。

 人間は生まれたその瞬間から、肉体という「密室」に心を押し込められ、人生という「密室」のなかで生きていかなければならない。もし、その密室を出る唯一の方法が死しかないというのであれば、それはなんと理不尽なことだと言うほかない。そんな理不尽な、しかし絶対的であるこの世の真実へのささやかな抵抗――人々が「密室殺人」に惹かれる本当の答えが、もしかしたら本書のなかにこそあるのかもしれない。(2003.05.08)

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