【双葉社】
『告白』

湊かなえ著 
 第五回本屋大賞受賞作



 たとえば、「血液型による性格診断」について考えてみる。「A型の人は几帳面」「O型の人はおおらか」といった、血液型と性格との因果関係を見出そうとするもので、誰もが一度はその手の話を聞いたり、あるいは自分も一時期はハマっていた(好きな人との相性などで)という方もいらっしゃるかもしれない。言うまでもなく、血液型によってその人の性格や相性がある程度決まってしまうというのは暴論であるし、そこにどれだけの根拠があるのかもはっきりとしてはいない。にもかかわらず、たとえば文芸社から刊行された『B型自分の説明書』という本が爆発的な売上を示したことを考えると、私たちはある意味で「虚構」であるはずの「血液型」――本来は血液の分類法のひとつであり、医学の分野に属していたものに対して、性格や相性といった異なる領域のものを混ぜ合わせ、それをひとつのカテゴリーとしてくくってしまった、という意味での「虚構」――というものに、想像以上に依存していると言えるのかもしれない。

 ある人のある特定の言動に対して、「あの人はA型だから」という結論をもってきてしまうのは、その人のなかで「血液型による性格診断」がひとつの因果関係として成立してしまっていることを意味する。だがその因果関係は絶対の真理ではなく、あくまで社会的なもの、人間の営みによって作り上げられたものにすぎない。じつはこうした「虚構」は、私たちの生きる社会のなかにはいたるところに存在する。たとえば「性」について。もともとは男女の身体的な区分にすぎなかったにもかかわらず、いつしか男女の性差が個人の性格やアイデンティティの要として認識されてしまっているところがある。女のなかにも荒々しい部分があるし、男のなかにも奥ゆかしい部分があるのに、その人の「性差」を基準のひとつとして、その人の個性を判断してしまうのは、そうした「性」というカテゴリーの「虚構」が、私たちの社会のなかに深く浸透しているからに他ならない。

 では、犯罪についてはどうなのだろう。犯罪を犯罪と見なすには、個人が自由意思をもっているということが前提となる。人は良いことをすることもできるし、悪いことをすることもできる。それを選択するかどうかは個人の自由である以上、その選択の結果に責任が生じるのは当然の帰結だという考え――だが、人が本来自由であるという考えは、いったいどこから生じたものであるのかを考えると、そこにもやはり社会制度や人間の習慣といったものが大きく関係していることに気づく。犯罪が社会秩序を乱す行為である以上、秩序を回復するためには犯罪そのものを取り除かなければならない。だが、すでに犯罪は起こってしまったことであり、なかったことにすることはできない。ゆえに、犯罪を起こした張本人を「責任者」として選定し、彼を犯罪に代わって罰するという手続きが必要となる。そして、この社会的機能が意味するのは、人間が自由であるというのは、絶対の真理ではない、ということだ。なぜなら人間は自由だから責任が生じるのではなく、ある行為に対する「責任者」を社会が必要としているがゆえに、人間を自由であると規定するしかなかった、ということになるからである。

 非常に前置きが長くなってしまったが、今回紹介する本書『告白』は、犯罪によって乱された秩序と、その秩序を回復するための一種の「儀式」――責任者を罰するという社会的な装置について、もう少し正確にいえば、その限界について、あらためて考えさせられる作品だということである。全部で六つの章によって構成されている本書において、章によってそれぞれ語り手は異なるものの、いずれの章においても徹底してある登場人物の主観――手記や日記、あるいは話し言葉といった主観のみをもちいて物語を構築しているのは、ある意味で社会的なものの見方というものを、はじめから排除しようという意図があったからに他ならない。

 たとえば、第一章の「聖職者」という章では、一学期の終業式に教員を退職することになったある女教師が、そのことを受け持ちのクラスの生徒たちに語る、という形で物語が進んでいく。自分が教師になった理由、「世直しやんちゃ先生」と呼ばれ、メディアでも取り上げられている桜宮正義先生のこと、先生と生徒との信頼関係について、シングルマザーやエイズ感染者に対する不当な差別意識について――彼女の話すことは、こんなふうに書いてしまうとまとまりのないもののように思えてくるが、それも話がこの学校で起きた彼女の娘である愛美の死について、そしてそれが事故死ではなく殺人、それも、このクラスの生徒による殺人であるということを告白する段階になって、一気に異様な雰囲気が満ちてくることになる。

 本書の中心にあるのが、「聖職者」における語り手である森口悠子の娘、愛美の死であることは間違いない。そしてその手口――犯人が誰で、どのようにして殺されたのか、という点についても、彼女はすでに辿り着いている。重要なのは、犯人が十三歳の中学生であるということ、警察発表では、愛美の死は事故死として判断されたということ、そして仮に、犯人を法の裁きにゆだねようとしても、未成年であるがゆえに刑事罰を受けるようなことはなく、また犯人も自分のしたことを反省したり、ましてや命の尊さについて自覚するようなことがない、という点である。

 つまり本書は、そうした少年犯罪の加害者に対して、その犯罪の被害者がいかにしてその復讐をはたすのか――森口悠子の言葉を借りるなら、「自分の犯した罪の重さを知り、愛美に対し心から申し訳なかったと反省し謝罪」させられるか、という一点に尽きる。そしてそれは、このうえなく残酷なやり方ではたされることになる。

 前にも書いたとおり、本書は常にある登場人物の主観に特化した形で物語が進んでいく。ゆえに、森口悠子が主観の「聖職者」を読むかぎりにおいて、私たちは必然的に彼女に深く感情移入してしまう。だが、それ以降の章において、彼女が犯人だと弾劾したふたりの少年の主観や、その母親、同じクラスの生徒といった主観で物語が書かれ、同じ愛美の事件を別の視点でとらえることで、それぞれの登場人物の感情にも触れることになる。ミステリーなどでは、こうした多角的な視点が出てくることで、当初磐石だった真相に別の側面やおもわぬ見落としが指摘されたりすることがあるのだが、こと本書において強調されるのは、それぞれの登場人物がもっている我の強さ、自分の考えを正当化するために事実を歪め、一方的に相手に責任を押しつけていく人間のある種の醜さである。そしてその醜さ、さらにはそこから生じてくる狂気めいた世界は、犯罪被害者である森口悠子自身にもあてはまる。だからこそ、登場人物の主観に特化した本書の語りは、淡々としていればいれほどその底にある狂気が仄見えてくることになり、私たちはそれに戦慄せずにはいられなくなる。

「聖職者」「殉教者」「慈愛者」「伝道者」――それぞれの章につけられたタイトルは、その言葉自体をとるならばきわめて高潔なイメージをともなうものである。だが、その主体となった人物にその言葉をあてはめたとたん、その言葉はこのうえない皮肉として響いてくることになる。そしてその皮肉は、自由であるがゆえの責任という「虚構」を押しつけようとする私たちの社会制度への皮肉にもつながっていく。悪い行為が非難されるのではなく、社会が非難する行為が「悪」と呼ばれるのであれば、その「悪」を規定するのが社会であろうと個人であろうと、何の違いがあるというのか。犯罪被害者は容易に加害者へと変わり、加害者は逆に被害者と化す、そこにあるのは、無限につづいていく憎しみの連鎖でしかなく、だからこそ本書は私たちに、悪とは何か、罪とは何か、そして罰とは何か、ということを考えさせずにはいられない。

 人は社会のなかでしか生きられない。だがそれ以上に、私たちはそれぞれの主観によって構成されている独自の世界のなかで生きている。そこは、ともすると自分に都合のいい事柄によって成り立っている世界でもある。起こってしまった犯罪に対して、何らかの形で責任を負わせ、それを罰するという儀式がどうしても必要になったとき、社会の代わりに個人の主観が優先することは、はたしてどういうことなのか。ともあれ、ぜひとも一度読んでほしい本だ。そしてこの作品のなかに書かれていることについて自分がどのように思うのかを、おおいに考えてもらいたい。(2009.02.14)

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