【早川書房】
『調停者の鉤爪』

ジーン・ウルフ著/岡部宏之訳 

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 私は現在、システム関係の職種に就いている者であるが、たとえば、あるシステムを構築したとして、それが業務の基幹部分と密接につながったものであればあるほど、一度動かしたら最後、止めることは容易ではなくなってしまう。人間の体で言うところの心臓の仕組みを思い浮かべてもらえば、あるいはわかりやすいかもしれない。心臓が止まるということは、その人間の死と同義だ。それゆえに、動いている心臓を長時間止めることはほぼ不可能だと言える。システムもまた似たようなところがあって、会社の業務が日々機能している以上、システムを止めれば、そこにつながる会社の業務そのものも止まってしまう。そしてその業務が、会社の存続においてクリティカルな位置づけにあれば、システム機能の停止は、そのまま会社の存続をも危うくしかねないものがあると言っても、けっして言い過ぎではない。

 物事は常に移り変わっていくものであるし、どれだけ新しいものであっても、年月とともに古びていくことを止めることはできない。システムもまた、長く動いていればいずれ時代との齟齬が生じていく。一番良いのは、システム全体を作りなおすことであるが、一度動き出したシステムを止めるのが難しい場合、現状のシステムはそのままに、その一部を作り変えたり、あらたなサブシステムを付加していくといった方法で対処しなければならない。結果、システムはつぎはぎだらけの、複雑怪奇な姿となり、しかも古い根幹の部分はもはやその構造を理解する者が存在しない、といった状況が発生することになる。

 わたしもまたヴォダルスが助けにくることを夢みていたのだ。獣の匂いのする堕落した現代を一掃し、かつてのウールスの輝かしい高度な文化を回復してくれる革命が起こることを。

 本書『調停者の鉤爪』は、「新しい太陽の書」シリーズの二作目にあたる作品であるが、前作『拷問者の影』において、拷問者でありながら、その拷問の対象となっていたセクラの方への愛ゆえに、彼女の自殺幇助に手を貸してしまったセヴェリアンは、「拷問者」ギルドを追放されるという憂き目に遭う。本書は古都ネッソスを取り囲む巨大な壁を抜け、あらたな任地として指定されたスラックスという土地を目指すことになるのだが、まずこの旅の目的地に、セヴェリアンが本書のなかでたどり着くことはない。そして、これはあくまで本書を読み終えた今の時点における推測に過ぎないが、このまま物語が進んでいったとしても、はたして彼がスラックスにたどり着けるかについて、私はかなり懐疑的になっている。というのも、セヴェリアンがスラックスに向かうというのは、他ならぬ「拷問者」ギルドの意向であり、彼がそのまま目的地にたどり着くということは、あくまでセヴェリアンが「拷問者」としての生き方を選択したことを意味するのだが、彼をとりまく状況が、旧態依然として変わることのない過去の仕組みのなかで生きることを許してくれそうもないからだ。

 まだまだその世界の全体像が見えていない本シリーズであるが、おぼろげながらわかっているのは、この世界の支配階級にある「独裁者」のグループと、その支配体制に叛逆しているグループとのあいだで長く戦いがつづいているということ、そして「新しい太陽の書」というシリーズ名がしめすとおり、古くなった世界に変化をもたらし、文字どおり「新しい太陽」の到来をこいねがう気運が高まっているということである。そしてそんな世界のなかで、語り手であるセヴェリアンが重要な役割を担っているらしいことは間違いないのだが、この時点における彼は、それまでの世界の維持を望むという気持ちと、新しい世界の到来を望むという気持ちが混在していて、いまだはっきりと心が決まっていないところがある。

 それまでの世界の維持を望む気持ちというのは、セヴェリアンがあくまで「拷問者」としての立場に固執しているという部分に起因するものだ。上述したように、彼は優秀な「拷問者」でありながら、その掟に背いてネッソスを追放された。だが、彼は自身に託された処刑用の剣テルミヌス・エストの所持にこだわり、それをめぐって前作では命をかけた決闘さえ行なっているし、セクラの方への自殺幇助についても自身の過失を認め、できることなら流刑先でギルドの名誉に塗った泥を拭いたいとさえ思っている。しかしその一方で、この古い世界の体制が劇的に変化することを望む気持ちも持ち合わせており、反逆者のリーダーたるヴォダルスに忠誠を誓っているし、彼のメッセンジャーとして「独裁者」の住む「絶対の家」に潜り込むという役割もはたしている。

 こうして本書を評しているかぎりにおいて、セヴェリアンという人物は、この物語の主人公でありながら、当人の意思とは関係ないところで、まるで外から与えられた運命に翻弄されるかのようにふらふらしているところがあるのだが、それは彼を象徴するアイテムが、現在ふたつ存在していることからも見て取れる。ひとつは言うまでもなく彼の愛剣となっているテルミヌス・エスト、そしてもうひとつは、本書のタイトルにもなっている「調停者の鉤爪」と呼ばれる宝石である。

 テルミヌス・エストは「拷問者」の剣であり、相手に死をもたらす武器である。いっぽう「調停者の鉤爪」――前作において、なんとも妙なめぐりあわせでセヴェリアンが所持するにいたった、本来は「ペルリーヌ尼僧団」の秘宝でもあるそれは、相手の傷を癒し、ときには一度奪われた命さえも回復させる力を秘めている。生と死、そのふたつの相反する要素をあわせもつことになった彼の、古き太陽の滅びゆく世界における役割は非常に象徴的だと言うことができる。

「――たとえ肉屋が一日じゅう牛の喉を切っているとしても、肉屋が死でないと同様に、あなたは死ではないわ。わたしにとっては、あなたは<命>よ。そして、セヴェリアンという名前の若者よ。――」

 はるか遠く星々を渡ってきた機械人、その彼を一瞬にして遠くへ転送する装置、レーザー銃を思わせる兵器や、未来からやってきたという緑の肌の生物、そして巨大な水棲人など、本書は前作以上に、ファンタジーとしての世界の随所にSF的な要素が盛り込まれており、また物語の舞台となっている「ウールス」が、はるか未来の地球であることを暗示するような場面も登場する。生と死の力、何かを終わらせる力と何かを生み出す力のふたつをもちながら、その力に引きずられるように世界を彷徨っているセヴェリアンの動向に、ますます目が離せない。(2010.03.01)

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