【角川書店】
『切り裂きジャックの告白』

中山七里著 

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 私は昔から感情的になる人がどうにも苦手だったし、今でもあまり快い印象をもちあわせていないところがある。激情にまかせて大声で怒鳴ったり手を出したりする人、あるいは場所もわきまえずに泣き喚くような人たちをまのあたりにすると、次にどうすればいいのか途方にくれてしまうし、それ以前に「どうすればいいのか」と考えることすら億劫になってしまう。理性的な人間として、お互いの妥協点を探っていかなければならないようなときに、誰かひとりが感情論をぶつけてくるのは、正直卑怯だと思ってしまうし、そうした態度は短絡的であるばかりが害ですらある、というのが私の基本的なスタンスである。

 だからこそ、他ならぬ自分自身がどうしても理知的になれないようなときには自己嫌悪に陥ることになるし、そうした場面は今もって多い。それは、自分が人間としてはまだまだ未熟であることの証左であるのだが、感情的であることそのものは、けっして悪いことではない。誰かに馬鹿にされたときに感じる悔しさや、理不尽な出来事に対する怒りの感情などは、人間だからこそ湧き起こるものであり、ある意味で人間らしさの発露だと言うこともできる。いっけん感情的な態度をとっていながら、そのすべてが論理的な計算のもとになされていたとするなら、むしろその理性のほうが問題だ。

 世の中の犯罪行為のなかには、激しい感情によって引き起こされたものが多数ある。感情はときに人を愚かな行為へと走らせるものであるが、その人間らしさは、まだ私たちにも理解可能なものである。本当に恐ろしいのは、当人にしかわからない理屈によって引き起こされる行為のほうだ。今回紹介する本書『切り裂きジャックの告白』を読んで私がまず思ったのは、私たち人間がもつ理性と感情の関係性、とくに、他人には理解しがたい理屈で行動している人たちに対する感情との関係性についてである。

 もちろん刑事にとって犯罪被害者やその遺族に過度の思い入れをすることは危険極まりない。千春が指摘する通り冷静な判断を損なう危険性がある。動機を探る鼻が鈍り、容疑者を特定する目が曇る。

 およそ人間の死体、とくに他殺体というものにはお目にかかりたくないというのが人情であるが、今回の事件で発見された他殺体は、その範疇をはるかに超えるような損壊状態にあった。なにせ犯人は、相手を殺害後にその体を切り裂き、なかの臓器をごっそり持ち去ってしまっているのだ。殺害現場が深川署の目と鼻の先にある公園ということもあって、警視庁はその威信にかけて犯人逮捕に取り組むものの、犯人を特定するものは無きに等しく、目撃情報についても警察の予想に反して芳しい成果が得られない。そんななか、犯人のものと思われる犯行声明文がテレビ局に送りつけられる。犯人は声明のなかで自分を「ジャック」と名乗っていた……。

 そのタイトルからも容易に想像できるように、今回の事件は「切り裂きジャック」を髣髴とさせる事件、というよりも、その模倣をあきらかに意図したものとなっているように見える。十九世紀のイギリスを震撼させたこの連続殺人鬼は、殺害した人間の臓器を持ち去るという殺害の手口や、新聞社に挑発的な声明文を送るなど、いわゆる劇場型犯罪のパイオニア的な存在であるが、本書の犯行についても、メディアやネットの影響力を根こそぎにするほどの大きなインパクトを与えることになった。こうした、世間をおおいに巻き込んだ事件というのは、本書に登場する警視庁の刑事、犬養隼人をはじめとする警察にとってはなんともやりにくい状況であるのだが、それ以上に深刻なのは、犯人が何を考え、どういった目的であのような猟奇殺人を繰り返しているのかが、皆目見えてこないという点である。

 本書のひとつの特長として、人間というものをあくまで論理で理解するか、あるいは人間らしい感情と経験でつかむかというひとつの対立構造がある。この構図はいっけんすると、事件の猟奇性やセンセーショナルな面ばかりが押し出されているがゆえに見えにくいものとなっているが、たとえば前者の代表格としては、「プロファイリング」を挙げることができる。起こった犯罪の性質や特徴から、その犯人像を推察するという手法であるが、今回の事件のような「何を考えているのかわからない猟奇殺人犯」を、脆弱な論理で読み解くことに対して、犬養や、彼とコンビを組むことになる埼玉県警の小手川和也などは否定的なところがある。そして事件についてことさら「勘」といったものを重要視する小手川の存在は、言ってみれば後者の代表格である。

 死体の臓器を奪う目的については見えてこないものの、腹を割いたその切り口を見るかぎりにおいて、そこには非常に手馴れた者の、それこそ顔色ひとつ変えることなく、あくまで沈着冷静に解体作業を進めていく犯人の姿が当初はあった。だが、そこに「切り裂きジャック」という記号が付加されることで、「何を考えているのかわからない猟奇殺人犯」というイメージが生まれ、それはメディアやネットの力によって一人歩きをするようになった。そうやって大勢の想像力を得たイメージの力は、その真実があきらかにならないかぎり払拭するのが困難なものとなる。そしてこうしたイメージの力は、本書におけるプロファイリングについても同じような位置づけにある。それはどちらも、ある事象に対して偏った見方を植えつけてしまう可能性をもっている、という点である。

 平成版切り裂きジャックによる劇場型犯行は、しだいに臓器移植の是非という大きな流れを生み出すことになっていくのだが、そのことで犯人像に近づくわけではなく、むしろ謎はますます深まっていくことになる。ただしこれは、あきらかに読者のミスリードを誘うような本書の物語構造に拠るところも大きい。はたして犬養たちがいかにしてその犯人像に迫っていくのか、というのは本書の大きな読みどころではあるが、その鍵となるのは、やはり人間としての理性と感情との関係性ということになる。理屈や論理だけでも、感情にまかせた行動だけでも、出てくるのは歪んだ人物像だけである。そしてそれでは、いつまで経っても事件の犯人には迫ることができないのだ。

 要はバランスなのだと犬養は考える。科学捜査を重視しながら、その隙間を捜査員の観察力で充填していく。その観察力は現場で養うしかない。科学捜査一辺倒の結果生み出された冤罪事件とは、とどのつまり現場の捜査員と検察官の観察力のなさが露呈したものに他ならない。

 上述のように考える犬養にしても、相手が男性であれば刑事としての経験と観察力を最大限に発揮し、嘘や隠し事を敏感に察知するのだが、女性の場合にはとんと勘がはたらかないという傾向を抱えていたりする。そして離婚してしまったものの、元妻や病気を抱える娘のことになると、ふだんの刑事としての冷静さが大きく揺らいでしまうという弱さももっている。感情に流されてしまっては、物事の本質を見誤る危険性がある。だが他ならぬそうした感情もまた、人間が人間たるゆえんでもある。はたしてあなたは、平成版切り裂きジャックの人間性にどこまで迫ることができるだろうか。(2013.12.21)

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