【光文社】
『神を見た犬』

ディーノ・ブッツァーティ著/関口英子訳 



 たとえば「天国と地獄」という概念について、いつの頃から意識しはじめたのかははっきりとしないのだが、小さい頃にけっこう夢中になって読んでいたカラー図鑑のなかに、地獄とはどういうところなのかを劇画調で描いたものがあって、そのおどろおどろしい地獄絵図が強烈な印象を残したことは今でもよく覚えている。この世で悪いことをした人間は、地獄で鬼たちに釜茹でにされたり、舌を抜かれたり、針の山を歩かされたりといった責め苦を受けることになる、というイメージは、死後の世界や宗教といったものを信じていない人にとってはただの世迷い事にすぎないのかもしれないし、そういう私自身もまた、日々の生活において天国とか地獄とかいうことを意識しているわけではないのだが、ふとしたきっかけで――それも、自分が何か正しくないことをしてしまったような時などに、そうしたイメージが浮かんできて不安に駆られるようなことがある。

 人が死んだらどうなるのか、その真実を知っている者は誰もいない。だが、人として生まれた以上、どんな人間にも確実に起こりうる唯一のことが、いつかは死を迎えるということである。私が何かやましいことをしようとしたときに、ふと心に生じる「地獄に落ちるかも」という不安は、ある意味で人の死というものとつながっている感覚でもある。だからこそ、たとえばハイデガーなどは、自分という個の実存を「死」という現象のなかに見出そうとするわけだが、老齢に達した方や重い病気の淵にあるような方はともかく、私たちが普段の生活のなかで、自分の死について考えたりするようなことはない。だが、いつかはわからないものの、死がかならず自分にも訪れるものである以上、死の不安は常につきまとうものであって、けっしてその不安から逃れられるわけではない。

 監視はどれくらい続くのだろう。あの犬は、ずっとここに居座るつもりなのだろうか。村に棲みつくとして、あと何年生きながらえるのか? それとも、奴を厄介払いする方法があるのだろうか。(『神を見た犬』より)

 本書『神を見た犬』は、表題作を含む22の短編を収めた短編集であるが、いずれの作品にも共通しているのは、ふとした瞬間に想起された不安の感情が引き起こすものを描いている、という点である。たとえば表題作の『神を見た犬』では、それまで信仰心など無きに等しく、自分勝手で自堕落な生活をしていた村人たちが、死んだ隠修士のそばにいつもいた一匹の犬の不思議な――まるで村人たちが良からぬことをたくらんでいないか監視しているかのような行動のなかに、「神の姿を見、神の匂いを嗅いだ犬」というイメージを結びつけることで、徐々に村人たちが自堕落の生活をあらため、何かと理由をつけて教会に足を運ぶようになる、という話であるが、村人たちをそうした行動に駆り立てているのは、ただ一匹の犬、「神を見た犬」に悪い評価を下されるのではないか、という恐怖である。

 ふだん神の存在など信じていない人であっても、少なくともキリスト教圏で生まれ育った人たちにとって、神という存在はけっして無視できないほどの影響をおよぼすものである。それゆえに、たった一匹の犬に神の存在を感じ、自身の自由な生活を脅かされているというのは、なんとも馬鹿馬鹿しく、またそんな自身の姿が滑稽極まりないという自覚がありながらも、心の奥底から来る不安をどうすることもできずにいる。

 むろん、そうした強迫観念にとらわれた人々のある種の滑稽さが、著者の書く短編の特長であることは言うまでもなく、たとえば、あるホテルにひとつだけあるトイレを使おうとすると、かならず他の誰かと鉢合わせしてしまうため、なんとか裏をかこうと試行錯誤するという『グランドホテルの廊下』や、たったひとりの子どもの癇癪を恐れて、両親や祖父母が戦々恐々とする『小さな暴君』といった、私たちの日常でもよくありそうな要素を題材としている短編もあるが、それ以上に本書のなかには、神や天使、悪魔や聖人といった宗教的要素をもちいた作品が数多く登場する。

 『一九八〇年の教訓』では、毎週火曜日の十二時にかならずひとり、世界的に有名な権力者が死ぬという、まるで漫画「デスノート」を思わせるような話であるが、その要因が、神による人間への戒めだと冒頭で明記されているし、『アインシュタインとの約束』(アインシュタインの、でないことに注目)では、自ら悪魔と称するものがアインシュタインの今とりくんでいる研究を早く完成させようとそそのかす。『クリスマスの物語』では、聖夜を目前にして不意に教会から消えてしまった神を求めて、大司教の秘書が奔走するという話であるし、『聖人たち』『風船』『天国からの脱落』は、いずれも聖人としてあがめられ、天国で安息の日々を過ごしているはずの聖人たちが登場する話である。そもそも本書の短編集の最初に来るのが『天地創造』であり、最後にあるのが『この世の終わり』であるということ自体、本書の性質の一端をよく言い表しているのだが、ここでひとつ明らかなのは、信者にとっては信仰の対象である神の存在が、かならずしも人々にとってありがたいものというわけではなく、むしろ説明のつかない理不尽な出来事、人々の不安をかきたてる要素として定義されているという点である。

 キリスト教圏にとっての「神」の存在が、いわば絶対のものとして、良くも悪くも人々の支えとなってきたのが近代であるとするなら、現代はその絶対的なものが力を失い、あらたな支えを求めて人々が暗中模索している時代であるのだが、「神」という絶対から解放されたことで、人々が真の自由を獲得できたのかといえばけっしてそんなことはなく、むしろ絶対的なものを信じられなくなったことで、さまざまな不安材料をかかえながら、自分自身の意思で生きていかなければならなくなっている。いったん狙いをさだめると、その相手を飲み込むまで何年でも追い回すという海の怪物を描いた『コロンブレ』や、敵国を殲滅するおそるべき超兵器の存在を描いた『秘密兵器』や『戦艦〈死〉』、あるいは、いくらでも紙幣を引き出すことができるが、そのぶん世界のどこかで忌まわしい事件が起きてしまうという奇怪な背広が登場する『呪われた背広』など、いずれも私たちのよく知る世界には存在しえない、あるいは感知することのできない存在によって、登場人物たちは自身のかかえる不安を増大させ、恐慌をきたしてしまう様子が描かれるのだが、それらの「不安材料」と同じ位置づけとして、神が描かれているのだ。

 私たちは世界を秩序づけるために言語を駆使し、それまで知らなかったものに対して名前をつけ、自分たちの世界へと引き入れることで、未知のものへの恐怖を克服していった。ゆえに、理屈でどうこうできないものは、人間の力がおよばないものであり、いずれも人間を不安に陥らせるものであるという意味で同じものだとする著者の考えは正しい。そして、そういう観点において、『七階』という短編は個人的にひとつの完成形をなしていると思っている。これは、ジュゼッペ・コルテという人物が、とある病気の治療のために療養所に入院するという話で、その療養所では、患者の症状によって階を分けるという方針をとっているのだが、当初ごく軽い症状ということで、七階の部屋にいたはずのジュゼッペが、けっして病気が重くなったというわけでもないのに、なんだかんだで徐々に下の階へと部屋を移されていくのだ。ここで面白いのは、それぞれ階を下に移ることになった理由が、たとえばたまたま部屋が足りなくなったからとか、病人の分類方式が変更されたからとか、それなりに理屈の通るものであるのに、まるでその後ろで何か御しがたい力が作用しているかのように、次々と下へと移されてしまうという点であり、理屈があるにもかかわらず理屈ではない不安に支配されてしまう、という状況が描かれている。

 何気ない日常のなかに、不意に紛れ込んでくる破滅や死の恐怖――何か共通のものを拠り所にすることができない現代を生きる私たちにとって、それはことのほか不安を掻きたてるものではあるが、しかし先が見えないからこそその見えない先に行ってみたいという思いが生まれ、不安だからこそその不安を取り除くために知恵を絞り、行動する。それは、『天地創造』の神が看破したように、「厄介ごとを際限なく招くような」存在であるかもしれないが、だからこそ、どうなるかわからないという魅力を備えている。そんな滑稽で、運命に容易く翻弄されてしまう人々の姿に、はたして読者はどんな思いをいだくことになるだろうか。(2008.05.17)

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