【新潮社】
『コールドマウンテン』

チャールズ・フレイジャー著/土屋政雄訳 

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「自然のままに生きる」という言葉がある。私はこれまで、この言葉について考えるとき、自然というものを自分の周囲にあるもの、あくまで自分という存在との比較対象としての環境というとらえかたをしてきた。だが、よくよく考えてみるなら、この「私」という存在もまた自然の一要素であって、そこから切り離されているわけではない、ということに気づく。私たちは人間である以前に、動物であり、生物のひとつである。「自然のままに生きる」と言うときに、そこに客観視された自分自身を投影できるかどうかで、そこから見出されるものはずいぶんと変わってくる。自然の一部としての自分のありようが、はたしてしっくりしているかどうか、どこか不自然だったり、ぎくしゃくしているようなところはないか――そんなふうに考えることができるようになって、はじめて「自然のままに生きる」という言葉が、まぎれもない生きたものとなって自分のなかに反映されていくことになる。

 もちろん、人間社会での営みや、そこから発展していったものを否定するつもりはない。人はひとりでは生きていけないし、だからこそ人間はお互いに寄り集まり、相互扶助の関係を築いてきた。だが、そうした社会生活のなかで、もし何らかのストレスや違和感を覚えるようなことがあるとすれば、それは自分自身にとって何かが「自然ではない」状態ということになる。あるいは、本来は自然の一部であるはずの人間社会の、どこかに歪みが生じている、と言うべきなのかもしれないが、その感覚を、言葉で説明するのは難しいし、また真の意味で「自然のままに生きる」ということも、おそらく容易なことではないだろう。なぜなら、人の意思はしばしば安易な解決方法へと傾いていくものであるし、そうでなくとも人間は、自分にとって都合のいい主観の世界を生きがちな弱い生き物であるからだ。

 あくまで自然の一部としての自分と対峙するというのは、そうした主観ではない部分の自分という形を確保することである。今回紹介する本書『コールドマウンテン』について、語るべきことは数多くあるが、本書の時代背景として南北戦争時代のアメリカを選んでいるという点に注目したときに、人としての社会的営み、きわめて理知的な生き方と、自然の一部としての自分自身の姿、理性以前の根源的な生き方という、ひとつの対極の形が見えてくることになる。

 充足への道は、内なる自然に従うことだ、とモンローはいった。いうのはやさしい。それに、たしかに真実だとも思う。だが、その内なる自然をどうやって見つければいいのだろう。なんのヒントももらえないのでは、その道に一歩踏み出すことさえままならない。

 本書の基本は、ふたりの男女の物語である。南軍の兵士として南北戦争に徴兵され、ピーターズバークの戦いで深手を負ったインマンは、一時は死を覚悟したものの、おおかたの予想に反して、病院に収容されてなお生きながらえていた。キリもなく攻め続ける北軍の兵士たち、累々と折り重なる死体や爆破されたその一部を前に、人の死に対して麻痺しかけていた彼の心は、ふと故郷のノースカロライナ州のこと、そして、コールドマウンテンの麓にある村に残してきた恋人のエイダのことを思い出す。傷が癒えれば、また兵士として戦場に狩りだされる。そのことにうんざりしたインマンは、病院を脱走して故郷へと向かう決意をする。

 いっぽうのエイダは、父モンローのあまりに唐突な死を前にして、判断停止状態に陥っていた。コールドマウンテンの麓に農場をもち、今ではそれが彼女のものとなったのだが、ピアノや文学といった教養にこそ明るいものの、それらの知識は彼女がこの土地で生きていくために何の役にも立たないという現実が彼女をとらえていた。そもそも伝道師であるモンローに連れられてチャールストンの町から移り住んだ土地であるが、今さら町に戻ることは、彼女の自尊心が許さない。幸いなことに、農場の仕事などの知識に明るいルビーという名の少女の協力を得たエイダは、この土地で自給自足の生活をつづける決意をする。

 インマンとエイダ、双方の主観が交互に入れ替わる形で進んでいく本書のなかで、ふたりの関係は恋人どおしということになってはいるが、そのことを匂わせるのはせいぜいふたりのあいだで交わされていた何通かの手紙程度であり、物語のなかでとくにそうした要素を強調しようという意図は少ない。それでなくとも、インマンが徴兵されて、すでに四年もの歳月が過ぎ、手紙もまた正しく相手のもとに届くこそすら困難になっている状況において、それぞれのなかで戦争がもたらす黒い影は、確実にふたりの心を蝕み、変化していくことを強要する。

 本書の冒頭において、それぞれ心に深い傷を負ったふたりが、それでもなお生きていくために――なにより生き残るために何らかの行動を起こすというシチュエーションを考えるなら、本書はある種の人間の成長、それも、けっして清々しいとは言えない、苦い経験をともなう成長を書いた作品だと言うことができる。だが、より重要なのは、ふたりの変化のきっかけを与えたのが「戦争」という、およそ人為的であり、このうえなく不自然な出来事だという点であり、ふたりが物語のなかで歩んでいく道のりが、そうした不自然さからの脱却をはかるための道のりとして定義づけられているという点でもある。

 本書の背後にあるアメリカの南北戦争は、工業化を推し進めるために奴隷制を廃し、あらたな労働力として雇い入れたいという北部と、農業経営のための奴隷は必須として、奴隷制の維持を掲げ、相手を侵略者として弾劾する南部の思惑が複雑に絡み合ったものである。だが、そうしたごく一部の裕福層の思惑は、戦場の最前線で文字どおり血まみれになって殺し合いをつづけている兵士たちにとっては何の意味もない。インマンの置かれた状況は、それぞれの「正義」を旗印に戦場に狩り出され、いつしか自分が何のために戦っているのがすらわからなくなったという意味で、このうえなく不自然な立場にあると言うことができる。戦場離反者として逃亡をつづけることの危険を承知で、それでもなお病院を脱走したインマンの密かな旅は、そうした不自然な状態からまぎれもない自分を取り戻すための旅、というひとつの象徴が見えてくることになる。

 同じようなことは、エイダの側にも当てはめることができる。彼女は距離的には自身の住んでいる農場から外に出ることはないが、それまでただ自分の周囲にあるというだけの存在でしかなかった農場をはじめとする、コールドマウンテンの自然を、他ならぬ自然の一部である自分ともども生かしていく場として、自分の内に取り込んでいく作業に従事する。畑を耕し、薪を割り、干草をつくり、時間を季節の移り変わりというひとつのサイクルとしてとらえていこうとする彼女もまた、それまでこのうえなく不自然な状態からの脱却を求めて、未知の領域へと足を踏み出しているのだ。

 まるで、戦争という愚かな行為を際立たせるかのような、厳しくも雄大な自然描写が美しい本書であるが、そんな自然を相手に貪欲に生きてきたルビーや、たったひとりで素朴な日々を送る羊飼いの老婆など、そこには地味ではありながら、それぞれがたしかな自分自身として地の足のついた生活をつづける人たちがいる。貨幣経済がかぎりなく無意味となり、自給自足と物々交換で成り立っているような世界に生きる彼らの姿は、粗野で単純でありながら、しかし不思議なことに、どこか神秘的で懐かしい感じを読者にもたらす。それは、私たちがはるかな昔に忘れ去ってしまった神話を、アメリカというこのうえなく新しい世界において、それにふさわしい形で再構築していくかのような印象をあたえる。その端的な例が、ルビーの父親でフィドル弾きのスタブロッドの変化だ。彼は、娘のことなどほったらかしで、およそ父親としては失格のろくでなしなのだが、そんな彼がある経験を機に、人々の心を揺さぶるような曲を次々と生み出していくようになる。

 物事には正しい並べ方がある、と思った。音楽がそういっている。生活も、きっと混乱と成り行き任せだけではない。そこには形があり、目的がある。物事はただ起こるものと思っていたスタブロッドに、音楽は強力に反論してきた。

 戦場ではもちろん、インマンの逃亡劇のさなかでも、人はあまりにあっけなく殺され、また誰にも見向きもされず死んでいく。あまりにも無意味な、そんな数多くの人の死を乗り越えて、彼は故郷のコールドマウンテンを目指す。そこは、かつてはまったく別の名前をもつ山であり、選ばれた者たちに対して争いのない平和な別世界への扉を開いてくれる場所でもある。はたして、インマンを待つものは何なのか、そしてそのときエイダは何を思い、どのような行為におよぶのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.03.30)

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