【新潮社】
『冷血』

トルーマン・カポーティ著/佐々田雅子訳 

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 陰謀論というものがある。海外では「ユダヤ人陰謀論」などがわりとよく聞かれるが、世のなかで起こった大きな事故や事件、あるいは現在も進行中の良くない出来事について、ある特定の個人や集団が首謀者となり、意図的に引き起こしたものだと考える論のことである。この手の妄想的主張が古今東西を問わず、世のなかに絶えることがないのは、それらがいずれも単純でわかりやすく、それゆえに誰もがたやすく受け入れることができるものであるからに他ならない。「論」などという単語がくっついてはいるが、そこに論理性があるかどうかはあまり意味がない。陰謀論とは、ある特定の誰かに悪い事柄の責任を押しつけるのにじつに都合のいいロジックでしかなく、人はその「論」を信じることで、自身の責任を回避する口実を得ることができるというだけにすぎない。だが、言うまでもなく世のなかで生じる出来事というのは、すべてが陰謀論で片づけることができるほど単純なものではない。

 私も含めた多くの人々は、しばしば複雑怪奇な真実よりも、単純明快な嘘のほうを信じてしまいがちな生き物である。理由はきわめて簡単で、そのほうが楽だからだ。この書評サイトをつうじて何度も繰り返してきたことではあるが、私たちはわけのわからない事柄を、わけのわからないままに放っておくことに耐えられるほど強い人間ばかりではない。世界のどこかに悪の親玉的な存在がいて、悪いことの原因を生み出しているという考えは、荒唐無稽でありながら、そこに責任転嫁できるという意味で多くの人が信じたいという願望を満たす考えでもある。だが、それでは私たち人間に備わっている思考する能力は、いったい何のためにあると言えるのだろうか。

 今回紹介する本書『冷血』は、現実に起こったある殺人事件について、著者自身が長い期間をかけて調査、取材を繰り返し、集められた膨大な資料によって事件の発生からその顛末にいたるまでを文章で再構築した作品であり、そういう意味ではノンフィクションという位置づけにあると言うことができる。だが、本書を読み進めていくと、この再構築された世界がかならずしも現実にあったことだけを厳選して書いているわけではなく、なかには犯罪者や被害者の言動や心理状態について、あたかもその場にいたかのごとく――まさに神的な視点で描かれている部分もあり、そうしたところではフィクションとしての小説を読んでいるかのような気分にもなる。本書の「訳者あとがき」では、こうした形式の作品を「ノンフィクション・ノベル」と呼び表しており、一般のノンフィクションと称されるものとは一線を画するような扱いをしているが、ここでひとつ押さえておかなければならないのは、なぜ本書がノンフィクションとフィクションの混交物のような体裁をとることになったのか、という点である。

 カンザス州西部にある素朴な片田舎に住む、地元の名士的存在だったクラッター氏をはじめとする一家四人が殺害されたのは、一九五九年十一月半ばのこと。家族全員を縄で縛りあげたうえで、至近距離から散弾銃で射殺するという残忍極まりないこの事件は、誰もがただ通り過ぎるだけの小さな村を悪い意味で一躍有名にした。殺人事件となれば、まず疑問として出てくるのは誰が犯人なのかという点であるが、この点については作品の早い段階で明らかにされている。本書はその冒頭で、まだ生きていた頃のクラッター一家の人となりについて書き記すいっぽうで、どこか不穏な雰囲気をかもし出すふたり組の男についても同時並行で書いているのだが、人好きのする容貌をもつ金髪の青年リチャード・ユージーン・ヒコックと、物憂げな表情のインディアンを思わせる肌のペリー・エドワード・スミスのふたりこそが、今回の事件の犯人である。ここで興味深いのは、彼らがじっさいにクラッター一家をどのように殺害していったのか、その詳細のシーンだけがまるで切り取られたみたいに抜けているという点である。

 本書を読み進めていくとすぐにわかることであるが、著者が本書執筆のために集めた膨大な資料を裏づけるかのように、今回の殺人事件にかかわることになった登場人物や場所について、そのかかわりの度合いに関係なく、かなり丁寧にその詳細を書き込んでおり、その緻密さこそがこの作品を大きく特長づけているのだが、それゆえに、このふたりの犯罪者の犯行シーンのみが途切れているというのは、まさにその欠如ゆえにかえって目立つものとなっている。そしてそれは同時に、本書の主たるテーマが、殺人事件の犯人が誰かということではなく、むしろなぜそんな殺人事件が起きてしまったのかという点にあることを、このうえなく雄弁に物語るものでもある。

 しかしながら、本書のなかにその疑問点を満足させる解答が用意されていると期待している読者がいるとすれば、その期待は裏切られることになる。犯人と被害者とのあいだに何らかの怨恨はおろか、それまでに一面識すらなく、単純に彼らが服役時代に、ある囚人仲間からクラッター氏のこと――彼が金をもっていそうだという情報を得たという、ただそれだけの理由で、最終的に今回の殺人事件が引き起こされたという事実がわかるだけである。しかも、ふたりがあると思い込んでいた大金はクラッターの家にはなく、一家惨殺の見返りに得たものはちょっとした物品と、たかだか四、五十ドルの現金だけたったことが、逮捕後の取り調べで明らかになるのだ。

 今回の事件を担当したカンザス州捜査局の面々も指摘しているように、ただたんに金のための犯行だとすれば、その犯した罪の重大さと比べてあまりに釣り合いの取れないものがある。しかもその犯行現場は、さまざまな点でその狡猾さや用意周到なところが見受けられ、それゆえに「明確な動機なき殺人」と称されることになるのだが、ここで言うところの「動機」とは、犯人側の抱くものというよりは、事件のことを知った者たちが納得するような動機のことを指している。なぜこれほどの残忍な犯行を、冷徹な思考を保ったまま成し遂げることができたのか――じっさい、本書を読みかぎりにおいて、逃亡中も逮捕されたあとも、ヒコックことディックもペリーも、およそ自分の犯した罪に対する良心の呵責や後悔の念といったものはいっさい見ることができないのだが、それは裏返せば、犯人であるふたりの青年が、自分たちと同じ人間であるという事実に、なんとかして納得のいく理由づけをせずにはいられないものがあるということでもある。

 だが、クラッター一家殺人事件について、おそらく誰よりも深くかかわった第三者である著者をもってしても、その「動機」を明確にすることはかなわない。そしてその精緻をきわめる文章は、読者たちに安易な動機づけを許さない。だからこそ本書を読み終えた者は、犯人たちのかかえる闇の部分――人間としての理解をさまたげる得体の知れないものについて、いっさいのごまかし無しで対峙することを要求されるのだ。

 しかし、二つの自白は、動機や手口についての疑問には答えてくれたものの、筋の通った計画性というものを感じさせてはくれなかった。この犯罪は心理的な事故、さらにいえば、人格を欠いた行為のようなものだった。被害者たちは雷に打たれて死んだも同然だった。

 ある種の信念と執念をもって今回の事件を担当した捜査官のデューイが、なんとかして犯人を逮捕し、その犯行の自白を得たときに感じたのは、事件を解決することができたという満足感ではなく、むしろ空しさと徒労感だったことが上述の引用からも見て取れるが、それはそのまま本書を読む私たちが体感する感情でもある。本書のなかに混交されているフィクションとしての要素――それはまさに、どうしても理解しがたい人間心理に対する、著者のせめてもの抵抗の跡だ。まさに、そのタイトルにあるとおりの「冷血」――はたしてあなたは、この事件に対して何を考え、どんな思いを抱くことになるのだろうか。(2013.03.16)

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