【角川書店】
『定本 物語消費論』

大塚英志著 



 こんなことを書くと、あるいは意外に思われる方もいらっしゃるかもしれないが、私は昔から読書が好きだったわけではなかった。いや、むしろ本などほとんど読むことのない少年時代を過ごしてきた、と言ってもいい。では、小さい頃にいったい何をしていたのか、と問われれば、私は「ゲーム」と答えるしかない。ボードゲームやゲームウォッチ、パソコンゲーム、そしてファミコンなどの家庭用ゲーム機――そう、昔の私は読書少年ならぬ「ゲーム小僧」だったわけだ。そして、メーカーが提供するゲームソフトをクリアしていく以上に私を熱中させたのは、自分の手でゲームを創作することだった。

 もちろん、そこらへんにいるごく普通の子どものひとりでしかなかった私に、本物のゲームなどつくれるはずはない。私がここで述べる「創作」とは、ゲームのキャラクターなりシナリオなり設定なりをノートに書く、という行為を指している。それはけっして体系づけられたものではなく、またけっきょくのところ、同年代の友人にさえも「パクリだ」とわかってしまうような、拙いものでしかなかったわけだが、ゲームメーカーが提供するシナリオなり設定なりに刺激され、そのシステムを借用して擬似創作を楽しんでいた、という点では、子どものころの私やその友人たちもまた、本書『定本 物語消費論』で著者が指摘する「物語消費」の構造にしっかりと絡めとられていた、ということになるだろう。

 本書は1980年代末に子どもたちのあいだで爆発的なヒットとなり、社会問題にもなった「ビックリマンチョコレート」や、もともとは少年向けのサッカー漫画だった「キャプテン翼」のキャラクターを使って、十代後半の女の子たちが生み出した何千何万という同人誌、いわゆる「やおい本」といったサブカルチャーを取り上げ、戦後からはじまった日本の消費型社会に生きる私たち消費者が、もはや商品の送り手が提供する物語には満足できず、自らの手で物語を生産するような時代になったことを論じる本である。かつて、私たちが属していたムラ社会や、戦前の天皇を頂点とする日本国といった、目に見える形での「共同体」を理解するための装置として機能していた「物語」が、しかし敗戦と、戦後民主主義への急激な移行によって「共同体」そのものが失われていった結果、人々が「都市伝説」をはじめとするさまざまな形で、より大きな、いまや幻となってしまった「共同体」へアクセスするための新たな「物語」を欲している、という著者の論は非常に興味深いものであるが、この論のもっとも驚くべきところは、おもに1980年代末から90年代はじめにかけて流行したサブカルチャーを題材とし、サブカルチャー論としてはすでに時代遅れの感があるはずの本書の論が、時代遅れであるどころか、さまざまな局面において顕著になりつつある、という点ではないだろうか。

 昭和天皇の崩御や反原発運動といったものにさえ、一種の物語性を見出し、あたかも最新の流行やトレンドであるかのように消費していくという本書の持論は、たとえばこれをオウム真理教が引き起こした一連の事件や、阪神大震災、最近ではニューヨーク同時テロ事件に置き換えたとしても、まったく違和感なく読めてしまう。こうした大事件のことを、一部の当事者をのぞいて、人々はすでに過去のものとして意識しつつある、というのは、はたして乱暴な結論だろうか。そして今、この書評を書いている時点でもっともメディアの関心が高い北朝鮮による拉致被害者問題については、今後どのような形で「消費」されていくのだろうか。

 けれども世紀末が近づき、それを超えるに至ってぼくはやはり八〇年代が終わりそこねているという実感を改めて強く持つようになった。いや、それは終わりそこねた、のではなくてどうやら八〇年代が一つの始まりであったのだという感覚さえ頭をもたげてきたのである。

 著者自身が文庫本のあとがきでも述べている、こうした困惑にも似た思いをもっとも端的に示すものとして、インターネットが挙げられる。私がこうしてホームページを立ち上げ、書評という形で自己主張できるようになったのも、インターネットがあるからこそであるのだが、コミックマーケットという、きわめてコアな空間が、「物語消費」の場という意味でインターネットの前身として機能していたとする本書での指摘が正しいものだとするなら、消費者が勝手に物語を生産し、消費していくという「物語消費」の理論は、すでに十数年も前に、インターネットが今日、あらたな「物語消費」の場として、消費者のあいだで爆発的に普及していくことを見抜いていたことになる。

 ところで本書の論で面白いのは、消費者が「大きな物語」へのアクセスのために自ら生み出しはじめた物語の一群が、しだいに「物語ソフト」にすらならない、ちょっとした噂という形をとりつつある、という点ではないだろうか。これはもちろん、本書の構造が「物語消費論」的なものから、少女のたちのあいだで流行する「おまじない」などに象徴される「少女民族学」的な方向へとシフトしていくからでもあるのだが、たとえば「キャプテン翼」のやおい本が、「キャプテン翼」という「大きな物語」(世界観)があってはじめて成立しうるものであったように、「都市伝説」といった噂もまた、どこかに「大きな物語」的なものがあるはずだと考えるのが普通だろう。だが、それはいったいどこにあるのか。本書のなかではそのひとつの例として、死後の世界、「異界」という宗教的なものを取り上げたが、すでに宗教に対する幻想が打ち砕かれ、世紀末への期待も裏切られた今日において、私たちが共有できるような「大きな物語」など存在しない、というのが正直なところではないだろうか。

 大部分の人たちにとって、噂はたんなる噂以上のものにはなりえない。そういう意味では、インターネットという「共同体」は、語られるべき「大きな物語」が存在しないまま成立してしまった、巨大な「物語消費装置」だと言うこともできるだろう。ホームページのなかでは最大のアクセス数を誇る「2ちゃんねる」を覗いてみればわかるが、あそこで消費されているものの大半は、もはや噂ですらない、ただの言葉の断片である。インターネットの存在はたしかに巨大な情報網であるが、そこにアクセスしてもすべてが明らかになるわけでもなく、またその情報のすべてが信頼できるものだという保証も、どこにもないのである。

 20年ほど前に「ゲーム小僧」だった私が、物語の「擬似創作」に熱中していたのと同じように、今の私もまた本という形の物語を追いつづけ、書評という「擬似創作」にとり憑かれている。そういう意味で、私は昔も今も「大きな物語」に飢えているとも言えよう。そして、そんな私の姿は、著者があとがきで示す以下のような危機感そのものを象徴しているのかもしれない。

「物語消費」という概念がその意味で今更、全てが有効だとは少しも思わない。――(中略)――だがそれでもニューアカの残滓としての本書が世紀を跨いでまで延命する意味があるとすれば、ぼくたちが語ることを可能にしている見えない枠組みに注意を向ける批評がかつてはありふれたものとしてあり、そして今はないというその一点への記憶を呼び覚ますためにこそある。(2003.01.20)

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