【理論社】
『日本という国』

小熊英二著 



 何かについて疑問に思ったり、何かを理解したいと望むとき、その「何か」の成り立ちや起源を探ってみるというのは、非常に重要なアプローチのひとつである。たとえば、以前に紹介した樋口陽一の『自由と国家』は、憲法の成り立ちについて書かれたものであるが、そもそも憲法というものが、国民ひとりひとりが守るべきものではなく、むしろ国家を代表する者たちが守るべき事柄を制定したものであり、国家権力を手にした一部の権力者が、国民の権利を踏みにじるのを防ぐためにこそ生まれてきたという背景を知っているのといないのとでは、今でもたびたび話題になる憲法改定問題のもつ意味合いやその重要性も、大きく異なってくる。

 とはいうものの、たとえば「憲法の成り立ちを知りたい」という直接的なアプローチを自身の内に発生させることができる人は、じつはそれほど多くはないと見ている。じじつ、私自身にしろ、『自由と国家』を読もうと思ったのは、そうしたアプローチとはまったく関係ない事情によるものであり、もしその事情がなかったら、そもそも「憲法とは何ぞや」という疑問すら抱かなかった可能性が高い。逆にいえば、私たちは今ある状態について、あまりにあたり前のものとして捉えてしまっているがゆえに、その状態について疑問に思うということ自体が難しくなっているような状況にある、ということでもある。

 それまで疑問にすら思っていなかった事柄について、確たる「疑問」という形を提示すること――本書『日本という国』は、今の日本という国のありようについてコンパクトに知ることを前提に、おもに明治時代と第二次世界大戦後の日本がどのような歴史を歩んでいったのかを簡単にふりかえるための本であるが、本書最大の特長は、今の日本がかかえるさまざまな問題について、その根本にかかわるであろう部分にアンダーラインを引くことで、読み手にその部分への疑問をいだかせることを目的として書かれているという点である。

 というのも、明治と第二次大戦後は、近代における「日本という国」の建国時代だからだ。――(中略)――どちらも、国家の基本的なしくみができあがった時代だ。だから、それらのことを知れば、いまの「日本という国」のあり方の、だいたいのことを知ることは出来ると思う。

 明治の日本をとりあげた章では、福沢諭吉の「学問のすすめ」をとっかかりに、おもに日本の教育制度の成り立ちについて文章を割いている。これは、その時期の教育制度のあり方が、国の今後のあり方と密接に結びつくものであるという考えに基づいているからであるが、それ以上に、私たちにとって馴染み深い義務教育――子どもたちがかならず小学校と中学校に通い、基本的な教育を受けるという制度が、そもそもどういうところから始まったのか、という点に目を向けていることの意義のほうが大きいと私は考えている。なぜなら、私たちにとっての義務教育とは、すでにあまりに私たちの社会になじみすぎて、そもそもそれがあること自体に疑問を差し挟むことができなくなっている事柄のひとつであるからだ。

 なぜ福沢諭吉がすべての日本の国民に教育を強制するような制度を推進したのか、という切り口について、本書はそれまでの身分制度に縛られた制度から、教育によって誰でもが自由に職業を選択できる制度への移行という、国民にとってじつに口当たりのいい理由とはべつに、当時の西欧諸国の帝国主義から、日本という国をいかにして守るべきかという国際的な問題を挙げている。ものすごくぶっちゃけてしまえば、私たちも耳にしたことがある「富国強兵」という概念をいち早く日本にも浸透させ、西欧諸国によって植民地化される前に、自分たちが帝国主義国家の仲間入りをすることで、逆に侵略する側にまわりたかったからこそ、今の義務教育が成立したという流れを本書では説明している。

 むろん、その義務教育が国民のあいだに浸透していったもっと直接的な理由として、そうした教育を受けたほうが、月々の給料をもらえる高給取りになれる可能性が高いと国民が気がついたから、というのもあるのだが、それにしたところで、日本でそうした人たちを社員として受け入れる近代産業が発達しなければ、成立し得なかったことではある。そして、かつての私たちが不変の価値として信じてきた学歴社会――いい大学に行き、いい会社に入れば将来安泰、という親たちの価値観の源が、この時代にも関係していることを知るのは、これからの学校教育を考えるうえでもけっしてマイナスではない。

 こうして本書のことを評していて気がつくのは、本書が「何が正しいのか」という点よりも、むしろ日本を外から眺めたときに、そのときの日本の振るまいがどのように映るのかという視点を大事にしている点である。そしてそれは、第二次大戦後の日本をとりあげたもうひとつの章においても徹底している。その視点においてとくに顕著なのが、アメリカとの関係――とくに、日本が独立国というよりは、むしろアメリカの属国であるかのような国際社会上の日本の立ち位置だ。それは逆に言えば、アメリカの後ろ盾なしには、日本がひとつのまともな国として何ひとつ機能していないと思われてしまっている、ということでもある。

 このアメリカの影響という点が、今の日本のありようを考えるうえでけっして切り離せないものであることは、たとえば当時の首相だった鳩山由紀夫が、マニフェストの目玉のひとつだった沖縄の普天間基地移設に取り組んださいに、アメリカの意向を過剰に忖度したマスメディアにさんざん叩かれて、最終的には首相の座を降りなければならなかったことを見てもよくわかる。そもそも日米の安全保障について、敗戦国の立場にある日本がとやかく言えるような立場にない、というのが日本という国の実情であり、戦後日本もそうした立場を逆に利用することで、経済的発展を遂げてきたという側面についても、本書は目を向けている。

 日本が経済大国になれたのは、もちろん日本の人びとの努力の結果でもあるけれど、こうした冷戦下の国際情勢でうまい位置を占めていたことも一因になっていたことは、覚えておいていいことだ。

 たとえば、日本の政治家が靖国神社に参拝することが、なぜこれほど大きな問題としてとりあげられるのか。韓国がすでに解決済みとしている戦後補償要求を、なぜ今もなお取り上げつづけるのか。そうした日本のかかえる問題について、おそらく本書はもっとも納得のいく説明がなされていると思われる。繰り返しになるが、それは「何が正しいのか」という視点ではなく、その行為が国際社会上でどのように受け止められるのか、という視点によるものであり、そこには当然のことながら戦後日本の賠償問題と、アメリカという国の意向が大きく関係してくる。

 本書は中学生からでも読むことができるというコンセプトがあるようで、読もうと思えば数時間程度で読むことができる量であるが、日本という国について、より広く国際的な視点で、しかも簡潔にまとめられているという意味で、一度は目を通してみる価値はあると言える。そしてそれぞれが、日本という国のことに新たな疑問をもつようになれば、本書はまさに本懐をとげたことになるのだろう。(2012.10.09)

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