【新潮社】
『再び消されかけた男』

フリーマントル著/稲葉明雄訳 



 私が年末に実家へ帰ったとき、たまたま観ていたフジテレビ系列のドラマで『三億円事件』というものがあった。今から三十五年前に現実に起きたその事件は、白バイに扮したたったひとりの犯人が、誰ひとり傷つけることなく、また誰ひとり損害を与えることもなく(当時の三億円=今の九十億円相当は、最終的には保険によって全額負担されたそうだ)、まんまと大金をせしめていった、という点で、まさに空前絶後の大事件だったわけだが、そのドラマの中でビートたけしが演じた犯人のその後は、けっして幸せなものではなかった。人とは違った才知に溢れ、まるで子どものように夢を追いつづけながら、けっしてその夢に到達することができない、ある意味で純粋な心を持つ年老いた犯人と、彼にかかわってしまった周囲の不幸――それが、私の観たドラマのテーマだったように思う。

 本書『再び消されかけた男』を含む本シリーズで主役を張るチャーリー・マフィンという人物に目を向けたとき、犯罪者とスパイという違いはあるものの、ふたりはどこかよく似た雰囲気を背負っているように思えてならない。それは、ふたりが共に人並みはずれた洞察力と発想の持ち主であり、それゆえに世界じゅうをあっと言わせる出来事をやってのけてしまう点においてであり、そして、星の巡り合わせさえよければ歴史にその名を残したであろう意味において、ふたりが共に生まれる時代に恵まれなかった、という点においてである。

 前作『消されかけた男』において、英米両情報部を相手に大立ち回りを演じ、まんまとその権威を失墜させることに成功したチャーリー・マフィンは、その妻イーディスとともに、いつ果てるともしれない逃亡生活を続けていた。時は「消されかけた男」事件から二年後、英米両情報部のトップはもちろんのこと、結果として二大国の大統領を交代させるまでにいたらしめた張本人であるチャーリーの行方を追う者は、けっして少なくはなかった。ある者は失われた情報部の権威を取り戻すために、ある者は自分の飽くなき出世の足がかりとするために、そしてある者は、極めて個人的かつお門違いな復讐心を満足させるために――元上司であったアーチボルド・ウィロビー卿の墓参りをするためにイギリスに戻ってきた彼の姿をとらえたとき、彼と因縁浅からぬ面々によって結束した英米両情報部によるチャーリー捕縛作戦は、史上稀に見る大規模かつ周到に練られたものとして彼の自由を奪うことに成功した。孤立無援のチャーリーは、はたしてこの絶体絶命のピンチを切り抜けることができるのか?

 前作において煮え湯を飲まされた英米両情報部による、言わばリベンジ・マッチという形となった本書の展開であるが、やる気まんまんの彼らに対して(何しろ彼らは、ウィロビー卿の墓を二年間も監視しつづけてきたのだ!)、迎え撃つチャーリーのほうはというと、これがじつに頼りない。例によってくたびれた服装とぼさぼさの髪という格好は変わらないのだが、飲酒の量が相当に多くなっており、この二年間が彼のスパイとして資質をすっかり鈍らせてしまっていることは確実だからだ。自分が愛してやまない英国情報部を結果として裏切る形となったことが、その腐れきった生きざまの原因なのだが、はたして、彼は情報部による巧妙な罠にすっかりはまり込み、逃げ出すこともできなくなる。その点で、彼を取り巻く状況は、前回以上に厳しいものとなったと言うことができるだろう。本書の読みどころとしては、そんなチャーリーがいかにして精神的に立ち直るかという点と、そしてもちろん、プロのスパイとしてのたぐいまれな洞察力を駆使して、彼がこの絶望的な状況をいかにして打破し、起死回生の一撃を英米両情報部にくらわせることができるか、という点に尽きることになる。

 ところで、そうした読みどころとは別に、今回の事件において注目すべきなのは、前作ではずいぶん影の薄かったチャーリーの妻、イーディスの存在ではないだろうか。実際、ほとんど孤立無援の状態に立たされているチャーリーの、唯一の味方とも言うべきイーディスは、今回のチャーリーの生き残り作戦のために、恐怖や困惑、不安といった感情の嵐に襲われながら、それでも彼のために自分に与えられた役割を果たそうと努めるのだが、そんなイーディスの献身的で気丈な態度に、読者はきっと胸打たれるとともに、彼女が心の奥底では信頼し、愛してやまないチャーリー・マフィンという男の、その外見からはけっしてとらえることのできないカッコ良さにあらためて気づかされることだろう。それは、どんなに絶望的な状況であってもけっして生き延びることをあきらめない精神であり、また自分に敵対する者たちが犯すちょっとした失敗をけっして見逃さない抜け目なさでもある。

 そう、チャーリーという男の大きな特徴のひとつである自惚れの強さ――もっとも、彼のスパイとしての力量を考えれば、あってしかるべき、またなければならない性質のものであろうが――が戻ってきたとき、彼はその本領を充分に発揮することができるのである。そしてその鍵を握るのは、間違いなくイーディスの存在なのだ。

 ドラマ『三億円事件』の犯人は、自分と、自分が信じた仲間の未来のために、三億円という大金を見事に手に入れたが、それが結果としてより大きな悲劇を生み出すことになった。本書においてチャーリー・マフィンは、生き延びるための戦いを強いられることになったが、そんな彼がはたして何を手に入れ、何を失うことになるのか――前作ともども、ぜひ読んでもらいたいものである。(2001.01.17)

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