【早川書房】
『都市と都市』

チャイナ・ミエヴィル著/日暮雅通訳 

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 ある殺人事件を推理する探偵、あるいは殺人事件の捜査を担当する刑事が、事件そのものから遠く隔たった立場にある第三者から選ばれるというのは、ミステリーにおける不文律のひとつとされている。そこには、事件となんらかの関係を持つ人たちは、その関係性ゆえの偏った見方からは逃れられないという理由があるわけだが、たとえば殺人事件の被害者となった人物の親族が事件の捜査をするようなことがあれば、その客観性にどれほどの正当性があるのかが疑わしくなるというのは、容易に想像できることではある。

 人が社会的な生き物であるがゆえに逃れられない、偏ったものの見方というものは、じつは私たちが考えている以上に私たちの言動を支配し、束縛しているところがある。「偏見」というと、いかにも誰かを不当に貶めることを「意識」してそうしている、というイメージがあるのだが、本当に注意しなければならないのは、そうした「意識」すらしなくなっている「偏見」だ。ミステリーのなかで、警察がさんざん調査したあとの事件現場に探偵がやってきて、警察関係者が見落としていた事件のなんらかの痕跡を発見する、というシーンが出てくるが、それは警察が杜撰な調査をしていたということではなく、警察という組織とその捜査のマニュアルという「偏見」のなかでは、探偵の発見した痕跡は事件とは無関係のものとして認識されなかった、というほうが正しい。それは、私たちが道端に落ちている石ころについて、視覚がとらえているにもかかわらず、脳内のフィルターにおいてその存在を意識しないというのと似たようなものだと言える。

 フェミニズム批評理論によれば、私たちの社会においてごく一般的なものとされている言葉遣いは、じつは「男性中心主義」という「偏見」の含まれる語法だとされている。ここで重要なのは、私たちがいかに無意識に多くの「偏見」的なものの見方に支配されているかということであり、その影響は言葉遣いだけでなく、私たちの身体的な部分にまでおよぶことがある、という点である。まさに路傍の石が、見えているのに意識できないという「偏見」――今回紹介する本書『都市と都市』は、そうした偏ったものの見方の寓話を思わせるような作品である。

 ベジェルから来たヴァンが走っていれば、当然ウル・コーマの人々の印象に残るはずだ。――(中略)――だが実際は、フロントガラスにある表示を見ないかぎり、人々はこんな外国の車が自分たちの街を走っているはずがないと思うから、結果的に誰もヴァンを見ない。目撃者となるはずの人々はおおかた、目撃すべきものがあると知らずにいただろう。

 物語の舞台となるのは、ヨーロッパにあるとされる架空の都市国家で、ひとつは「ベジェル」、もうひとつは「ウル・コーマ」と呼ばれている。一人称の語り手として登場するティアドール・ボルルは、ベジェル警察の過激犯罪課の警部補であり、空き地で発見された女性の他殺死体の捜査を担当することになる。当初は新入りの娼婦かと思われていた被害者女性であったが、捜査の過程で浮かび上がってきたのは、彼女はベジェルではなくウル・コーマの住人であり、ウル・コーマにある遺跡の調査にやってきた、考古学専攻の大学院生であるという事実だった。そしてこの事実は、彼女がウル・コーマで殺害され、その遺体がベジェルに運び込まれて遺棄されたことを物語っていた。

 本書の語り手はベジェル側に属する人間であり、物語も当然のことながらベジェルを中心として当初は進んでいく。そのさい、私たち読者もまたあくまでベジェルという都市国家の物語として本書を認識することになるのだが、読み進めていくうちに、いくつかよくわからない単語や現象と出くわすことになる。<完全>、<異質>、<クロスハッチ>、そして<ブリーチ>――読者にとっては異質な単語が、あたかも共通認識であるかのごとく使われているというのは、SFというジャンルにおいては常套的な手法ではあるが、さらに奇妙なのは、語り手であるボルルをはじめとするベジェルの住人たちは、街のある部分や人について、まるでそこに存在しないかのように振舞っているという事実である。それも、意識して見ないようにしているわけではなく、ごく自然な習慣としてそれらの存在を意識しないようにしているらしいのだ。

 ふたつの都市国家であるベジェルとウル・コーマは、まったく異なる国であるにもかかわらず、その物理的位置についてはほぼ同じ場所にある、という設定が、本書のキモだと言っていい。そして本書のなかで起こる一連の事件も、すべてはこのふたつの都市国家の奇妙な共存体制に絡んでくる。都市のなかにはじつに入り組んだ国境線が存在し、まるでモザイク画のごとくお互いの領土がひとつの都市のなかに入り混じっている。そしていっぽうの住人は、他方に属する建物や住人について、あからさまな視線を向けることさえ許されていない。人やモノ、あるいは視線が国境線を越えることは<ブリーチ>と呼ばれる侮辱行為にあたり、通常の犯罪以上に恐ろしい罪として処罰されることになる。しかもこのふたつの都市国家には、その<ブリーチ>行為を常に監視するための権力機関が存在し、その組織は事実上それぞれの国の警察組織以上の越権行為が認められている。

 さらに言うなら、こうしたある種の強権的な方法で二国間の境界線が厳密に守られているという事実にもかかわらず、ベジェルとウル・コーマとの国交は断絶しているわけではなく、正式な手続きと正式なルートを介すればお互いの領土を行き来することは可能であり、このことが本書で起こった殺人事件をよりややこしいものとしている。ウル・コーマのものがベジェルに持ち込まれることは<ブリーチ>行為だ。だが、それが正式な手続きのもとに運び込まれたものであれば、それがたとえ死体であっても<ブリーチ>とはならない。被害者女性の身元が判明した時点で、ボルルはその捜査権を<ブリーチ>に譲り渡すつもりであった。だが、<ブリーチ>による独自調査によれば、今回の死体はなんと、正式な手続きに基づいてベジェルに持ち込まれたものだという。そしてこの時点で、たんなる殺人事件かと思われていた今回の事件が、どうも<ブリーチ>すら欺くことが可能な、きわめて組織立った計画的な犯行であることを匂わせるようになる。

 きわめて奇妙な国境線と、きわめて奇妙な――ときにはきわめて滑稽にさえ映るルールによって成り立っている、ふたつの都市国家をめぐる物語は、二国間の統一をめざす過激派組織や、遺跡から発掘される遺物の密輸、国家的陰謀や企業の思惑といった要素が絡み合いつつ、伝説とされる第三の秘密の都市国家「オルツィニー」の存在を中心に、ふたつの都市国家が成立することになった歴史の秘密にまで踏み込む勢いを見せはじめ、物語もここから俄然面白さを増すことになる。そう、きわめてミステリーっぽい殺人事件からはじまった本書は、じつはふたつの都市国家の秘密をめぐる物語へと変貌をとげることになるのだ。だがいっぽうで重要なのは、ふたつの都市国家を厳密に隔てているのは、物理的な国境、たとえば河や海岸といったものではなく、純粋に人々の意識の内にある、きわめて精神的な国境の概念であるという事実である。

「<ブリーチ>行為をしない外国人なんか、いると思いますか?」――(中略)――「彼らに期待できるのは、少しばかりの礼儀正しさだけでしょう?」

 旅行などで外国に行くと、その国の生活習慣や文化が、自分の住む国のそれとはあまりにかけ離れていて、ひどく驚かされるという経験がよくある。自分の国では当たり前であっても、別の国ではきわめて珍しい事柄として扱われるというのは、けっして珍しいことではない。そうした国家間にあるとされる価値観の違いを、きわめてデフォルメした形で提示したのが本書だと言うことができる。全世界のグローバル化、あるいはインターネットによるボーダーレスな時代という流れのなかで、国境をはじめとするさまざまな境界線の意味合いはもちろん、もはや国家が国家であるということの意味合いすら薄れつつあるように思える今という時代において、物事をありのままに「見る」ことを思想的に歪めている仮想の都市国家の物語というのは、きわめて象徴的であり、また寓意的でもある。ベジェル、ウル・コーマ、そしてそのどちらでもない<ブリーチ>――この奇妙な境界線の敷かれた世界を思いがけず渡り歩くことになったボルルが、はたしてどのような真相にたどり着くことになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2013.12.13)

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