【河出書房新書】
『見えない都市』

イタロ・カルヴィーノ著/米川良夫訳 



 以前紹介した佐藤和歌子の『間取りの手帖』は、奇妙な間取りの物件ばかりを集めたもので、そこに書かれた著者のコメントも絶妙ながら、それ以上に「間取り」という、一種の記号がもたらす魅力を存分に堪能できる本だったことをよく覚えている。

 あたり前のことではあるが、間取りというのは現実の物件そのものを表わしているわけではない。もし実際にその物件がどんな場所にあり、どのような建築物であるのかといった情報を確かめたいのであれば、数枚の写真を見るほうがよほど現実的だし、それ以上にじっさいにそこまで出かけて、自分の目で見てきたほうがいいに決まっている。だが、ある物件を真上から俯瞰し、その部屋割りや廊下などの位置関係を示すことだけに特化した間取りは、その記号性、抽象性ゆえに見る人の想像力をかきたてるものがある。『間取りの手帖』は、まさに「間取り」だけを提示するというスタイルの勝利だったわけだが、住む場所を探している人たちにとっては、ともすると現実との落差を引き起こしかねないものである。だが、逆にそうした想像力が、現実の物件とは違った、もうひとつの物件ともいうべきものを生み出すきっかりとなりうる、という点は、私たちが考える以上に重要なものだ。なぜならその乖離は、人間が人間であるがゆえに引き起こされる現象に他ならないからである。

 本書『見えない都市』は、マルコ・ポーロが派遣使として訪れたさまざまな都市の様子を、フビライ汗に語って聞かせるという形式をとっている。言うまでもなく、マルコ・ポーロはヴェネツィア共和国出身の旅行家であり、また『東方見聞録』の著者として、フビライ汗は歴史上類を見ない広域な大帝国を築いたモンゴル帝国の皇帝として、ともに有名な歴史上の人物であるが、本書のなかで重要な点は、そうした歴史的背景ではなく、マルコ・ポーロが報告する50以上もの都市そのものにこそある。

 山の頂と頂とのあいだに宙づりになっている都市、それぞれの家が一本の棒の上に建てられていて、地面に接していない都市、標識で覆い尽くされた都市、水道管しかない都市――同時にいくつも存在していたり、都市のなかにさらに都市が入れ子になっていたり、無限に放出されるゴミで周囲を囲まれていたり、思い出を売買していたりと、彼が語る都市はいずれも奇想天外、およそ現実にはありえそうもない、空想の産物と言っていいようなものばかりである。それは、物語のテーマとしてはそれぞれ非常に魅力的な要素を備えたものであるが、同時に読者は疑問をもつことにもなるだろう。マルコ・ポーロは、なぜフビライにそのような都市の話ばかりを聞かせるのか、そして、おそらく現実的には何の益もないであろうそれらの空想話に、フビライはなぜ興味深く耳を傾けているのか、と。

 本書のなかで語られる都市の数々は、それが現実かどうか、現実のものとして実在可能かどうかいった視点は、じつのところさほど重要ではない。というのも、マルコ・ポーロが言葉だけではなく、ときに大袈裟な身振り手振りや、あるいは持参した品々を並べて報告する都市の姿は、そのコミュニケーションのあり方からして、ありのままの真実を相手に伝えることは不可能であり、またそれゆえに、それらの都市は現実かどうかいう価値観から解き放たれた存在と化しているからである。むろん、最初はフビライとマルコ・ポーロとのあいだに言語の差異というものがあったのは間違いない。だが、お互いに言葉のやりとりが普通にできるようになって後も、彼は報告のさいにパントマイム的なコミュニケーションを止めようとはしない。それはすなわち、自身と相手とのあいだに必然的に生じる認識の違いを、意図的に想像力をもちいて補完させるような作用を期待しているからに他ならない。

 こうしたマルコ・ポーロとフビライ汗とのあいだにある認識の差異は、ひとつのことを共有しようとしているにもかかわらず、それぞれの想像のなかでは別個のものを見ているということになる。そしてマルコ・ポーロの語る都市は、大なり小なりそうした差異を意識させるものが多い。その差異のいずれが真実で、いずれが虚構であるかといった疑問は、おそらく無意味だ。そして、だからこそそれらの奇想天外な都市たちは、私たちがまぎれもない現実であると信じている境界線を歪め、その空隙を突くようなものとして機能することになる。

 たとえば、デスピーナという都市は、陸路で近づく者には海を、海路で近づく者には砂漠を思い起こさせる。またゾエという都市は、旅人がこれまでの経験から想像するあらゆる都市の仮説にあてはまらない、多様な姿を見せる。あるいはアデルマという都市は、そこで出会う人出会う人が、ことごとく自分のかつての人生にかかわった死者であり、エウドッシアという都市では、その中央にある一枚の敷物の幾何学模様が、都市の形を決定づけている。そこにあるのは、都市と、それ以外の何かとの対比であるのだが、その両者の境界線はかぎりなく曖昧で、ぼかされている。そして、読者もまた、そのどちらかを想像しようとしても、かならずそれらのもつ既存のイメージによって裏切られることになるのだ。

 空気の代わりに土が詰まっていたり、遠くから眺めることしかできなかったり、あるいは都市と外の境界線が見いだせなかったりする都市――そんな都市の存在をたしかめることは不可能であるが、不可能であることが、そのままそれらの不在を証明しているわけではない。それは、あるいは屁理屈に過ぎないだろうか。たとえば私は、海外旅行をしたことがなく、それゆえに海外の都市について、私は写真や本や、あるいはテレビといったメディアを通して想像するしかなく、その想像はおそらくそれら実在する都市の本質をつかんではいないだろう。だが、その本質をつかむということが、どれほど重要なことだろうか、と同時に考える。そして、そもそも私たちは、身のまわりにあるあらゆるものについて、その本質をどこまで理解しているといえるだろうか、とも。

 フビライは、治める帝国の広大さゆえに、その内にある数々の都市について、報告で聞くのみの存在でしかないものが大半である。そんな彼にとって、実在する都市の報告と、おそらく空想の産物でしかないマルコ・ポーロの報告する都市との差異は、じつのところ等価であったとしても不思議ではない。現実の虚構との境界線がかぎりなく曖昧になっていくマルコ・ポーロの見聞録――その夢幻の世界を心ゆくまで彷徨してみてほしい。(2008.03.29)

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