【宝島社】
『Cの福音』

楡周平著 



 ハードボイルドということばが「かたゆでの卵(head-boiled)」という意味を持っていることを、恥ずかしながらつい最近まで知らなかった。だが、できるだけ主観を排除し、冷静な視線で対象(たとえそれが凶悪犯罪や殺人といったたぐいのものであっても)を表現することに徹する小説がハードボイルドと呼ばれるのであれば、本書『Cの福音』はその条件を充分クリアしていると言えよう。

 本書は麻薬をめぐる人々の話である。パソコン通信という現代の情報技術を巧みに利用して、麻薬の仕入れからその売買にいたるまで、相手に直接会うことなくして麻薬の管理をおこなうドラッグディーラーの朝倉恭介、彼を含むアメリカマフィアの元締めであるリチャード・ファルーシオ、「鸚鵡」としてアメリカマフィアと恭介の間で麻薬情報を提供する稲田茂実や、麻薬をアメリカから日本に安全かつ確実に届けるために働く人々、そして、そんな恭介のビジネスをつぶそうとする同業者たち……。麻薬という一本の糸を中心にして、さまざまな人間が絡み合うことで、この物語は構成されている。その登場人物たちに優劣はない。恭介を含めてすべての人間は麻薬という主人公を彩るための道具にすぎないのだ。どの登場人物にも特別の思い入れをいれることなく、あくまで客観的な出来事として書ききろうとしているのは、この小説の最初とラストの関係を見てもわかる。

 物語の展開としてちょっと無理があるんじゃないかと思われるようなところもあるにはあるが、麻薬によってもたらされるかりそめの快楽に溺れ、中毒におかされたあげく組織によってモノのごとく「始末」される人間の様子は、激しいアクションとはまた違ったスリルを味わわせてくれる。戦闘そのものではなく、そこにいたるまでの微妙な駆け引きや思惑の交錯から生まれる緊張感を描く筆力は、見事というほかにはない。

 C(cocaine=コカイン)がもたらす福音は、その先にある破滅をカモフラージュするためのものでしかない。それは中毒者に限らず、それを取り扱って利益を得ようとする者達にとっても例外ではない。だが、それでも危険な香りを放つ麻薬をめぐって人々は踊らされていくのだろう。私のように、ごく普通の生活をしている人たちの知らない所で。(1998.11.28)

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