【河出書房新社】
『蝶の皮膚の下』

赤坂真理著 



 題名は忘れてしまったが、「アフタヌーン」という漫画雑誌の新人賞を取った人の作品のなかで、主人公の女の子がこんなふうな意味のセリフをしゃべっていたのを覚えている。「両親は私を愛してくれる。だけど、それは私が父さんと母さんの子供だから愛してくれるだけで、私自身を愛してくれているわけじゃない」
 自分にいったいどんな価値があるのかわからない。誰もが自分と同じように教育を受け、同じように仕事をし、同じように苦労し、同じように幸せそうに見えるこの世の中で、自分がまぎれもない自分自身である、という確かな何か――自分と他人とを明確に分けるもの――を見つけることができない。本書『蝶の皮膚の下』に出てくる高橋梨花という女性を見ていると、ふとそんなありふれた、しかし切実な問題を意識せざるを得ない。

 梨花はホテルの従業員として働いているが、ウォッカやブランディーなどの酒を注入した菓子、またアンフェタミンやバルビツールといった薬をつねに持ち歩き、それらを仕事中に服用している。彼女はアルコールや薬を使いこなすことによって、「なりたい自分」を造り出していると語っているが、では「なりたい自分」を脱ぎ捨てたときに出てくるはずの、本当の自分は、いったいどこにあるのだろうか。梨花には、おそらくわかっている。そんなものはどこにもない、仮にあったとしても、たいして意味のないものであることを。そしてわかっているからこそ、梨花はアルコールや薬、さらには他人とのセックスによる皮膚感覚といった、即物的なものに依存しつづける。その姿は、自分という存在の希薄さを忘れようと躍起になっているようにも見える。
 そんな梨花が、特殊な記憶障害を負った岡野航に対して、いったい何ができるのだろう。知っているはずもない他人の記憶を、まるで自分が体験したかのように話し、しかもその矛盾に気づくことのできない航を、梨花は救いたいと思う。そのために梨花は、航の気持ちを理解しようと肌を重ね合わせ、彼の代わりに精神科医の吉岡が出す薬に身をゆだね、彼に対しても体を開く。哀しいことに、彼女が航に対してできるのは、これまで自分が依存してきたものの延長線上にあるものでしかない。

 からっぽの梨花と、自他の区別ができない航。「自分」というものの曖昧さ、という点で、ふたりは確かに似たものどおしであり、それゆえに梨花は航に興味を持ち、彼のことをもっとよく知りたいと願う。だが、いくら航の話す膨大な物語を記録し、まとめていったとしても、それがほんとうに航という人間のことなのかどうか、確かめるすべはない。ちょうど、梨花がホテルの従業員としての自分を造っているのと同じように、航のことばもすべては航以外の人間の記憶から造られたものかもしれないのだ。

 航は私の世話をしてくれるようになった。航も私を抱いてくれる。航の膚は気持ちいい。一緒に生きていこうと航は言ってくれる。記憶なんかなくてもいいんだ、今があれば。でも航の言う今という世界も、彼が刻々と言語でつくっているものではないのか。言葉がなかったら、航はこれをどうやって考えるというのだろう。

 自分の肌が相手の肌と触れ合っているという感覚、性感帯に加わる快楽、そして殴られることによって受ける痛みというのは、あくまで皮膚が受けた刺激を脳が判断することによってはじめて認識できる情報でしかない。自分の皮膚の下にあるものを見ることができないように、私達が自我と呼ぶものにしても、ことばによって覆われた膜みたいなものかもしれない。そう考えると、本当の自分、などという表現に、いったいどれだけの価値があると言えるのだろう。

「胡蝶之夢」という有名な故事がある。荘周という人物が蝶になった夢を見て、はたして今の自分と蝶としての自分の、どちらが真実なのか、という物我一体の境地を意味する言葉であるが、本書『蝶の皮膚の下』がほんとうに伝えたかったのは、自分と他人との境界、現実と夢との境界、といった線引きに、どんな意味があるのか、ということなのかもしれない。(1999.03.09)

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