【講談社】
『地の底のヤマ』

西村健著 

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 以前に読んだ島田裕己の『創価学会』のなかに、この宗教組織を一種の巨大な「村」としてとらえる視点があったのを覚えている。高度経済成長期の労働力として、地方の農村から都市部に流出してきた人たち――それこそ労働組合にすら入ることのできなかった労働者の受け皿としての役割を、創価学会という宗教がはたしていたという視点は、個人という単位ではどうすることもできない困難をかかえる弱者の強い帰属意識、相互扶助というものを考えたときに、さもありなんという説得力をもつものでもあった。

 人はひとりでは生きていけない弱い生き物だ。だが同時に、私たちは自我というやっかいなものを抱え、自分が他の誰でもない自分であることを確認せずにはいられない生き物でもある。多くの人たちが集まって形成される人間社会というのは、そうした個人と集団とのせめぎ合いが否応なく生じてしまう場であり、だからこそそこに人間ドラマが生まれることもあれば、人間どうしの衝突が起こってそれが刑事事件に発展していくこともある。今回紹介する本書『地の底のヤマ』は、かつて日本最大の採炭量を誇ったとされる三池炭鉱と、その坑夫たちの生活の場として発展してきた大牟田の町を舞台とする作品であるが、ここに書かれている圧倒的な密度の世界は、頼るべきものの何もない流れ者たちの「村」としての創価学会を思い起こさせるものがあった。共通するのは、彼らが日本の戦後を象徴する経済社会における底辺の者たち、国や大企業といった強い者たちに搾取され、ときには人としてあたり前の幸せすら奪われてしまう人たちだという点である。

 「ここ大牟田では我々の直ぐ足下、地の底にヤマがある。警察は人の心に埋もれた、事件(ヤマ)を探って掘り起こす。なるほどなぁ、炭鉱マンも我々も同じ。どちらもヤマを掘るのが仕事、というわけだ」

 全部で四部構成、作中時間にしてじつに四十年近くが経過していく本書の基本的な流れは、それぞれの部において発生した刑事事件を、福岡県警の警察官である猿渡鉄男が地道な捜査によってその解決の糸口をつかんでいく、というもので、構造そのものについては単純なものだと言うことができる。ただ、作品のなかで鉄男がかかわることになる事件は、いずれも炭鉱の町である大牟田が大きく関係してくるものであり、この町で生まれ育った彼にとって大きなアドバンテージとなっているところがある。そして、けっして短くはない骨太な本書を読み終え、その全体を見渡してみてあらためて思うのは、それぞれの事件がいずれも三池炭鉱の負の部分――戦前戦後と日本の経済を支えてきた産業という表舞台の影に隠されたものと大きく絡んでおり、鉄男をふくむそれらの事件の関係者の運命をも大きく揺さぶることになる、という点だ。

 本書の序の部分にも書かれているとおり、三池炭鉱を全国的に有名にしたものとして、日本最大の労働争議「三池争議」と、戦後最大の炭鉱災害である炭塵爆発事件のふたつがある。いずれも炭鉱の負の部分を象徴するような事件であるのだが、たとえば第一部で死体として発見された樺杵三千弥は三池労働組合のナンバー3であり、必然的に「三池争議」に大きく絡んでくることになる。もとは炭鉱の資本家である三井財閥から、炭鉱労働者の権利を守るために結成された同じ労働組合でありながら、財閥との徹底抗戦を主張する旧労派と、ある程度の労働条件に妥協して採掘再開を主張する新労派とに分裂、結果として労働者同士が衝突するという皮肉な事態になった「三池争議」――その旧労派に所属していたのが樺杵であり、当時派出所勤務の警官にすぎなかった鉄男が、土地勘をもつ者として県警捜査一課のエリート刑事である安曇に抜擢され、ともに事件の聞き込みを進めていくうちに、この争議が町にもたらした影響の大きさが少しずつ見えてくる、という構造が本書にはある。

 はたして樺杵を殺害したのは、その関係者がなかばあたり前のように主張しているように新労派の誰かなのか、それともたんに海に落ちるという不幸な事故で死んだのか――ミステリーとしての構造をもち、その解決のために警察が動くという意味では警察ミステリーという位置づけもできるのだが、本書の本質からするなら、ものすごく骨太な社会派ミステリーだ。なぜなら、事件の真相を掘り起こしていくことで見えてくるのは、石炭産業という、本書第一部の事件が発生した頃からすでに斜陽の道を転がり続け、最終的には閉山してしまう運命にある産業の象徴ともいうべき三池炭鉱と、その産業によって形成された独特の人間社会が複雑に入り組んでいる様であるからだ。そしてその構図は、人がなぜ犯罪に走ってしまうのかという命題を読者に強く意識させずにはいられないものがある。

 そもそも金に詰まっていたために今回の事件は起きたのではないか。金のために事件を起こすのは、往々にして貧しき者。懐だけでなく心まで荒んでしまった者たちである。

 第一部における新旧労働組合の対立が象徴するように、弱い者どうしがさらにお互いを差別し、争わずにはいられない、という現実が私たちの世界にはある。そして上を見れば資本家と労働者という厳然たる格差が存在し、下を見れば在日朝鮮人・韓国人や被差別部落への差別がある。もともと大牟田という町は、そうした種々雑多な人間が炭鉱を中心に寄り集まってできたという経緯があり、そこには金しか信用しない者、日々を刹那的に生きる者、帰属する組織のために生きようとする者など、さまざまな価値観が蠢いている。本書の主人公たる鉄男の捜査とは、こうした人々の心の奥へと踏み込んでいく過程でもあるのだ。そしてそれは、警官となった鉄男自身の過去へも向けられていく。

 人は生きていかなければならない。だが、社会的弱者の立場にいる人たちにとって、しばしばその「生きる」ということそのものが困難になることが多い。とくに本書の大牟田のような場であれば、なおのことだ。じっさい、それを象徴するものとして、炭塵爆発に巻き込まれ、CO中毒となった坑夫たちの存在が物語の節目節目でかならず登場する。見た目は何の外傷もないがゆえに、ろくな治療もされないまま放置されたCO中毒患者は、じつは脳のほうにダメージを受けており、記憶障害をふくむさまざまな症状に苦しめられる。そしてその症状は、ときに暴力という形で彼らの家族すら崩壊させてしまうのだ。本書を読んでいくとわかってくるのだが、鉄男が四部を通し、さまざまな立場で追うことになる事件の背景には、そうした弱き者たちの生々しいまでの「生きる」姿が隠されている。

 犯罪は犯罪であり、しかるべき裁きを受けるべきであるという主張は正しい。だが、その「正しさ」が必ずしも周囲の人たちにとっての「良い事」であるとは限らない――そうした事情を、本書はことのほか理解しているところがあるし、だからこそ、あるときは自分が正しいと思うことを成そうとして、逆に大きな悲劇を引き起こしてしまうことになる。そしてそれは、鉄男自身についてもけっして例外ではない。物語の各所で悪夢という形で彼を苦しめる、彼と彼の幼友達たちの過去の罪とは何なのか、そして彼と同じく警官だった父親――所属する派閥や出身に関係なく、誰にでも平等に接するという姿勢を崩さず、それゆえに大牟田の住人の誰からも尊敬されていた父親が、いったいなぜ殺されなければならなかったのか、という点は、本書全体を貫く大きな謎となっている。そしてその謎の真相もまた、三池炭鉱というひとつの人間社会の縮図となっている。そこに生きる人たちの息吹すら感じられそうな小説を、私は他に知らない。

 物語が進むにつれて、炭鉱の衰退は誰の目にもあきらかなものとなっていき、鉄男の身の上についても、警察官であるという事実は変わらないにしろ、変化を余儀なくされていく。かつての幼なじみだった者たちも、良くも悪くもそれぞれの道を歩んでいく。あくどいことに手を染める者、警察やヤクザですら手を出せないほどの暴れん坊、そしてCO中毒によってしばしば自分の帰る家の場所も忘れてしまう者――そんな炭鉱の町に生きる者のひとりとして、鉄男が何を思い、どのような生き様を見せることになるのか、ぜひとも確かめてもらいたい。(2012.12.26)

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