【幻冬舎】
『沈黙』

古川日出男著 



 人間という種の存在が善なのか、それとも悪なのか、という問いかけは、長年にわたって議論されてきながら今もなお明確な答えを得るにいたっていない、言わば人類の永遠のテーマでもあるが、少なくとも人間だけが、生存すること以外の目的で生き物の命を奪うことができる存在である、という見解だけは、どうやら間違いのない事実のようだ。一説によると、戦争をするのは人間だけだという。敵国の人間であるという、ただそれだけの理由で人間は人間を殺すことができる――ナチスのホロコースト、日本軍の南京大虐殺など、過去を振り返れば、それこそ枚挙に暇のないほど、残虐な殺戮を繰り返してきた人類の歴史を見出すことができるだろう。なにより人間には、弱いものがもがき苦しむさまを、心のどこかでは楽しむことを知っている。小さな子どもはときに、捕まえてきた虫の脚や羽をむしったり、カエルの尻に爆竹を詰めて爆殺したりといった行為に手を染める。それは確かに残酷な行為ではあるが、子ども達にはそれらの行為に対する罪悪感は微塵もない。
 他人の苦しみを娯楽に変える想像力――そういった事実は、あるいは私たちが知的な生物であることの証拠なのかもしれない。だが私には、殺すことでしか生きられない人間が、さらに無益に殺生を重ねずにはいられない闇の部分――純然たる悪をかかえて生まれてくる、という説明のほうがよほど利にかなったもののように思えてしまう。なぜ人は、こんなにも暗い闇をいだいて生まれ落ちなければならないのか。あるいはそれは、人間が人間として生まれたという、それだけの理由で背負わなければならない罪なのか、と。

 本書『沈黙』に書かれている物語を、ひと口で説明するのは難しい。善と悪(あるいは音楽と闇)との戦い、一族に受け継がれていく特異な能力、あるいは架空の歴史、あるいは姉弟であることを超えたところの悲しき宿命、そして生と死――そこには重層的なテーマが錯綜して存在し、そのすべてを包括する一族の、何代にもわたって行なわれてきた戦い――あくまで静かな戦いの歴史があり、そして彼らの問題はそのまま、現代に生きる私たち自身がかかえる問題にも直結する。

 はじまりは、太平洋戦争終結直後のシャム(現タイ王国)。東南アジアを中心に、日本国軍の情報機関に属していた大瀧鹿爾は、その天性の語学能力と、自分の声を自由に変化させることのできる能力を駆使して現地人になりすまし、情報を収集する諜報部員のエキスパートとして暗躍していた。母国の敗戦をいち早く予期した鹿爾は終戦と同時にビルマからシャムへと落ちのび、ある阿片窟でかくまわれていたかつての上司、山室龍三郎大佐との再会を果たす。戦争というおろかな行為で否応なく人を――何千何万もの人を殺める「悪」を背負ってしまったかつての上司は、鹿爾にこう告げる。「おれは悪そのものであり、その悪を、生きとし生けるものに自覚させる」と。

 それから時代は一気に現代にまで下る。祖母の死をきっかけに、それまで隠されていた自分のほんとうの母方の家系について知ることになった秋山薫子は、まるで運命に導かれるかのように、祖母の姉である大瀧靜と知り合い、彼女ひとりではあまりにも広い屋敷のひと部屋に下宿することになる。その屋敷のそもそもの主で、靜の甥にあたり、そして謎の死をとげた人物である大瀧修一郎――その彼が晩年に使っていた地下室で薫子が見つけたのは、いっさいのラベルが剥がされた膨大な数のレコードとオーディオセット、そして「音楽の死」と書かれた十一冊のノートだった。

 抹殺された音楽――「ルコ」。修一郎のノートに書かれていたのは、娯楽としてではなく、生存のための儀式として生まれた音楽であり、それゆえに他のどのような音楽よりも圧倒的な躍動感に満ち、けっして記録されることも、同じ曲を繰り返すこともない幻の音楽の神話と歴史、その断片的な記録だった。薫子は「音楽の死」ノートを解読し、修一郎が収集した「ルコ」のレコードを聴く。それは、生きるための音楽を、自分の血とし肉とする儀式でもあった。そして、薫子は思い出すのである。弟の燥(ヤケル)のこと――小学生のときに鍾乳洞の中で行方不明となってから、他人の悪意を解放し、破滅へと導く力を得てしまった、闇をまとったかつての弟の存在を。

 過去と現代における奇妙な符合、時空を超えて受け継がれていく闇と音楽、そして繰り返される悲劇―― 一見すると単なる善と悪との対決をモチーフにした物語のようにとられがちであるが、実際にはそれほど簡単な構図ではない。そもそも、本書において語られる「善と悪」とは、どのような概念を指しているのだろうか。それに関しては、冒頭で登場する山室元大佐の言葉がもっとも端的だ。

 悪は、悪のかたちに、胚まれて存在する。悪意の有無は問われない。行為こそが悪なのだ。

 私たちの誰もが心の中で飼っている深い闇――それは憎しみや妬みといった、けっして振り払うことのできない人間の負の感情とも言うべきものであるが、その存在をもって悪とみなすのであれば、すべての人間が悪人、ということになってしまう。その真偽はともかくとして、行為こそが悪である、という点で言えば、他人の心にある闇を増長させ、悪意を行為へと導いてしまう燥の存在は、まさに純然たる悪だ。

 この世界は書き割り――偽物の世界なのだ、と燥は言う。だが、燥という名の肉体はたしかに生きているし、全細胞は生きるための活動を絶え間なくつづけている。たとえ、完全なる闇の中にその身を置き、自身が闇の化身だと思い込もうとしても、究極のところで肉体という殻から解放されることはない。だからこそ、肉体がたしかに生きているということを再認識させるために、生存のための音楽「ルコ」を生み出すことが、著者にとって――あるいは修一郎や薫子にとって、どうしても必要だったのだ。

 生きているということ、それはとりもなおさず、肉体を構成する細胞のひとつひとつが活動している、ということである。あらゆるジャンル――それこそ音楽という枠組みさえ超えて浸透していった「ルコ」、その原点は、私たちの体内にこそある。心臓は躍動的なビートを打ち、血液は体じゅうを踊り狂い、肺は規則正しいリズムを刻み、そして個々の細胞は、さながら地中の水分を吸い上げる樹木のごとく、生命の源をとり込んでいく。生きているという、ただそれだけのことで発されるさまざまな音の集合体――「ルコ」とは生きることと同義であり、そして私たちの体内に満ち溢れている生命の音楽のことなのである。

「闇に勝つものはなにかな?」と息子にいった。「音楽だろう」
「音楽」と息子であるあたしは答えた。
「視えないで聞こえる力だ」

 生きていること自体がひとつの奇跡である、ということ――それが前作『13』も含めた著者の一貫したテーマのように思える。それはあまりにあたり前のように存在し、それゆえにあまりにも容易に捨てられたり、奪われたりしてしまう。善であること、悪であること、そういった概念を超えたところから生と死を見据えようとした著者の態度には、ある種の決然とした覚悟が感じられる。
 「沈黙」――本書のタイトルにもなったこの言葉の含むところのものを、はたしてあなたはどこまで汲み取ることができるだろうか。(2000.04.05)

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