【祥伝社】
『中国人民に告ぐ!』

金文学著/蜂須賀光彦訳 



 本の書評をメインとしたこのサイトをはじめてから、私はそれなりにいろいろな本を読んできた。個人的な傾向としては、日本人作家の小説を好んで読むようなところがあるが、リクエストがあれば海外の小説も読んできたし、そうでなくても、日本以外の国々にどんな作家たちがいて、どのような小説を書いているのか、というのは私のなかで尽きることのない興味のひとつとして、常に心の片隅を占めていた。

 このサイトでじっさいに私が読んだ海外の翻訳された小説で、リクエストではなく私自身が読んでみようと思って手にしたものはけっして多くはないのだが、それでもちょっと気になっていたことのひとつとして、ロシアや中国、とくに中国の現代文学の作品や、あるいはエンターテイメント性のある小説といったものの情報がどうにも少ないのではないか、というものがあった。同じ東アジアの国でも韓国の文学や小説は、最近の韓流ブームもあってか、図書館や書店でもわりと目につくのに、中国の小説というと、せいぜい『三国志』や『西遊記』『水滸伝』といった過去の傑作小説か、せいぜいが魯迅の『阿Q正伝』か金庸の武侠小説シリーズ程度の知識しか持ちあわせていない、という事実に愕然とさせられるのだ。中国といえば、中学や高校では漢文を習い、杜甫や李白といった過去の詩人の作品を勉強するほど身近なものであるにもかかわらず、たとえばロシア文学といえばドストエフスキーやトルストイ、プーシキン、ゴーゴリといった人物名は即座に思い浮かぶのに、「中国文学」で有名な人というと、魯迅くらいしか出てこないのである。もしかしたら、これは意図的にアメリカやヨーロッパの文学を取り入れようとする政府の陰謀ではないか、と勘ぐったりもしたのだが、北朝鮮ならともかく、おそらく本当に面白い作品や文学的に価値のある作品であれば、そんな陰謀とは関係なく日本にも入ってくるはずである。この大きな格差はたんにそれだけの理由では片づけられないものがあるのでは、と以前から疑問に思ってはいたのである。

 今回紹介する本書『中国人民に告ぐ!』が書評リクエストとして依頼されてきたそもそものきっかけは、ちょっと前に話題になった北京や上海における一連の反日デモに憤りを感じて、ということであるが、私が本書を読んでまず得心したのは、なぜ日本では中国文学や中国の小説が、欧米のそれと比べて極端に少なく、また紹介されていないのか、ということの一因を、本書のなかに求めることができるということだった。本書の論を借りるなら、中国には文芸をはじめとするあらゆる文化をはぐくむ土壌がそもそも未発達であり、日本に紹介するほどの文芸作品が存在していないから、ということになる。

 あまりにも極端な、とお思いの方もいらっしゃるだろう。私も自分でそう思っている。だが本書の著者である金文学は、どうやら本気で中国の文化というものに大きな疑問を呈しているようだし、そう思わざるを得ないような例をこれでもか、というほど挙げている。誰もが我先にとバスに乗り込もうとし、そのために平気で弱者を押しのけていく無秩序ぶり、溺れている人を助けようとしないばかりか、助けるための金を要求する厚顔ぶり、法よりも仲間うちだけに通用する人情が幅をきかせ、実利のための泥棒や人身売買が横行する無法ぶり、そしてそれゆえの公共道徳心やサービス精神、他人に対する思いやりの欠如、強い者にはひたすら卑屈になり、弱い者には横暴をふるい、何もかもをふんだくっていこうとする粗暴ぶり――本書はそうした、中国の過去や現代における文化的な暗黒面を容赦なく書きつづったものであるが、他ならぬ中国で生まれ育った朝鮮族三世である著者が、ここまで痛烈な母国批判をおこなったことで、たしかにそれまで不思議で仕方なかった中国に対するさまざまな疑問が、以前よりはよく見えてくるようになったことはたしかである。

 たとえば、先に少しだけ出てきた反日デモについても、私は以前からなぜ中国人たちが日本に対して、今もなおあれだけ大規模なデモや不買運動といった極端な行動をとるのだろう、という疑問があった。もちろん、日本が過去に犯した過ちはまぎれもない事実であり、その被害者たちはその痛みや苦しみをけっして忘れることはないのだろうし、また忘れるべきでもないとは思っている。そして、彼らと私たちの温度差は、ひとえに被害者と加害者の認識の差であるとずっと思ってきた。それが私にとってもっとも納得のいく解釈であったからだが、本書を読んであらためて、ニュースなどで流された反日デモの様子を思い浮かべたときに、あきらかに戦後生まれの若者たちが声高に叫んでいる姿や、日本の車に乗っているというだけで同胞である中国人をもつるし上げる様子に対する違和感について、納得できるものに突き当たった。著者はこのデモの例を「大同病」と名づけている。言ってしまえばただの野次馬根性でしかない、というのだ。

 無知はいたずらな追従心理を生み出す。つまり主体的な人格と個性がなく、むやみに他人がするから自分もするという癖を生じ、他人がみんな見物するから、きっと何か面白いことがあるのだろうと追従するところにこの野次馬心理が生じる。

 本書を語るうえでもっとも重要なキーワードは「反文化志向」である。太古の昔から皇帝による中央集権国家をつづけてきた中国では、生きることは皇帝に追従することを意味していた。そんな専制主義が長くつづき、さらに悪いことにその歴史と思想――自分たちこそが世界の中心であるという「中華思想」――をどこまでも重要視してけっして考えをあらためようとしないがゆえに、物事をまったく別の観点から見据えるということ、いわば自主独立の精神がどうしても育ちにくい中国の文化傾向を指すキーワードである。本書で語られている、にわかには信じがたい中国の「現実」がどこまで真実なのか、私には断定することはできないが、そんな無知蒙昧な自国民のことをあえて抉り出す著者の文章には、怒りというよりもむしろ恥ずかしさや哀れみがにじみ出ているようにも思える。そして、本書を読み終えた読者は、おそらく先の反日デモに対しても、同様の心境をもつことになるだろう。

 つい先日、私の父が定年退職したときに中国に夫婦で旅行に行った。父も母もとくに大きな問題に遭うこともなく、景色がきれいだったとかとにかく広かったとか、いろいろと感想をもったものの、おおむね満足していたようであった。だが、対外的には徹底的に「いい顔」をしてみせる、怖ろしいまでに「面子」にこだわる中国人の性質のひとつを知った今、はたしてふたりは中国という国の真実を、どこまで見てきたのだろうか、と思わずにはいられない。(2005.06.03)

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