【光文社】
『日本沈没』

小松左京著 



 もし、この書評を読んでいらっしゃる方が日本人であるなら、私はひとつ訊いてみたい。「あなたは日本が好きか」と。

 愛国心、ということであれば、私はおそらく、今の日本という国にそれほど執着していない方だろうと思っている。戦後、経済的な豊かさをひたすら追い求めた結果、それ以外の大切なものを置き去りにしてしまい、そして現在、たしかなものが何もない、先の見えない閉塞感に途方にくれている感のある日本――教育の問題にしろ、軍事の問題にしろ、環境や憲法、不良債権など、さまざまな難題や矛盾をかかえながら、そのことを真剣に議論することもなく、自分さえよければそれでいい、という歪んだ個人主義が横行するこの国を、愛しているとはどうしても言うことができない自分がいることを、私は知っている。

 だが、一方で日本の自然や伝統が好きか、と問われれば、私は迷うことなくYesと答えることだろう。急激な近代化とともに都会ではずいぶん失われてしまったとはいえ、変化にとんだ四季をもつ日本の自然はやはり多彩で美しいものであるし、そうした自然を生活の一部として受け入れる形で発達してきた日本の伝統は、他の国にはない情緒あふれるものであり、それが日本の大きな魅力のひとつであることも、私は知っているからだ。

 ユーラシア大陸の東端に位置する4つの大きな島と、その周辺にある無数の小さな島々からなる国土をもつ日本が、文字どおり地球上から消滅する――『日本沈没』という、おそろしくストレートで、それゆえにショッキングなタイトルを冠した本書の内容は、まさにそのタイトルの中にすべてが集約されていると言っても過言ではない。どのような天変地異が日本を海中に引きずり込むのか、その過程において、どのような災害が日本を襲うのか、一億人以上もの日本人の脱出は、はたして可能なのか、そしてそのことによって、世界の情勢はどのように変わっていくのか――1973年に刊行された作品だけに、現在の世界情勢とは多少食い違うところもあるが、「日本沈没」というひとつの仮定が現実のものとなったときに起こりえるあらゆる出来事が、本書の中にはある。

 それゆえに、本書を構成する要素は多岐にわたり、科学的論証のもとに書かれたSFとしても、壮大なシミュレーション小説としても、また全日本を巻きこんだパニック小説としても、そして私を含めた日本人のこれから歩むべき道を示唆する社会小説としても通用するものがある。それは同時に、およそ考えられるあらゆる方面から、日本沈没という災厄を描ききる、ということでもあり、そういう意味で、著者はひとつの虚構を限りなく現実に近いものにまで昇華することに成功したと言うことができるだろう。

 そう、この日本が消滅する――私たちが普段、あまりにもあたり前のものとして受け止め、その存在を意識することさえないこの島国が、物理的に消えてなくなってしまうという、ひどく荒唐無稽な物語を、膨大な情報量をもってひとつのリアルとして完成させたこと自体、すさまじいことだと言えよう。そして、そのスケールの大きさゆえに、本書には多くの登場人物が出てくるが、その中でもとくに重要な中心人物として、海底開発KKの深海潜水艇操縦士である小野寺俊夫と、地球物理学の学者である田所雄介というふたりの日本人を置いたのは、これからの日本人の姿を考えたときに、ひとつの象徴を成しているように思える。

 小野寺は会社に属するサラリーマンという、ある意味では典型的な日本人青年でありながら、組織に属すること、たとえば会社での地位や昇進といった事柄に興味を示すことのない「自然児」として――それこそ、自分が日本人であること、日本という国で暮らすこと自体に執着しない人間という位置づけであり、一方の田所教授は、日本の学会ではキワモノのアウトサイダーとして嫌われてはいるが、海外ではむしろ高く評価されている国際人でありながら、日本という国土、その自然の姿を誰よりも愛している人間という位置づけとなっている。そして現代をふりかえったとき、何か特定の組織への帰属意識にとらわれない人間、という意味で、小野寺を「新しいタイプ」の日本人とした著者の目は、たしかに先の時代をとらえていた、と言えるかもしれないが、同時に、文庫版の解説や、著者自身によるまえがきにもあるように、先の阪神大震災で陥った混乱を見るかぎりにおいて、私たちの大部分は、いまだに小野寺のような「新しいタイプ」の日本人になりえていない――この日本という国土への帰属意識にとらわれたまま、今まで来てしまったことを、まざまざと思い知らされることになるだろう。

 日本人は、人間だけが日本人というわけではありません。――(中略)――日本人と、富士山や、日本アルプスや、利根川や、足摺峠は、同じものなんです。このデリケートな自然が……島が……破壊され、消え失せてしまえば……もう、日本人というものはなくなるのです……

 考えてみれば、私もまたまぎれもない日本人でありながら、その意識の拠り所となっているのは、国家という目に見えないものではなく、私の足元にある国土、その自然と伝統だということを認めなければなるまい。それゆえに、その国土が失われ、たとえば十億人いると言われる中国のなかに混じってしまったとき、日本人という人種は確実に中国人として吸収されてしまう、というのは、けっして誇張でもなんでもない事実である。本書が刊行後二十数年を経てもなお、圧倒的なリアリティをもって読者に迫ってくるのは、なにも阪神大震災の預言的な意味合いばかりではない。確かなものなど何ひとつない、21世紀を迎えてもなお迷走しつづける戦後日本という新しい国が、その最後の拠り所としている大地までもがじつは磐石なものではない、ということを示してみせることによって、本書が、これからの日本人のあるべき姿――精神的なアイデンティティをいかにして確立していくのか、という問題提起をすでにおこなってきたからこそ、それは古びないのである。

 アーサー・C・クラークの有名な『幼年期の終わり』では、人類はそれまでの人間的な価値観を抜け出して、より高次のステージへと昇っていくことになるのだが、本書を読んで思ったのは、まさに日本版『幼年期の終わり』とも言うべきスケールを備えた作品だということである。

 幸いなことに、日本を象徴する4つの島は、まだ存在する。だが、日本という目に見えないものは、じつはとっくの昔に沈没してしまっているのかもしれない。私たちは今一度、日本というものを、日本人であることの意味について考えを深める時期にあるのかもしれない。(2002.02.28)

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