【新潮社】
『チャイルド44』

トム・ロブ・スミス著/田口俊樹訳 



 人として生まれてきた以上、自分の生に何からの意味を見出したいという欲求は、多かれ少なかれ誰しもが胸に抱いてしかるべきものだ。私たちにとって、「生きる」ということは、たんに「生存」するということを意味するわけではない。たとえ、私たちの生が遺伝子にとっての使い捨ての乗り物でしかなく、それが生物としての生の真実であったとしても、自分が他の誰でもない、まぎれもない自分自身であるという自意識を確立するにいたった私たちに、たんに「生存」しつづけるだけの生に満足しろというのは、ある意味で酷なことだと言える。

 だが同時に、とにかく生きのびるというのが私たちにとって最優先すべき課題であることは、間違いのない事実でもある。誰でも死ぬのは怖い。だが本当に怖いのは、死の恐怖をまえにしたときに、自分がどのような態度をとるのかまったく予測がつけられないことではないか、と最近になってふと思うようになっている。人として正しく、高潔な生をまっとうしたいという願望はあっても、死の恐怖にさらされたときに、そうした人間としての誇り高き志が、きわめて原始的な生存本能によって脆くも崩れ去ってしまうことは充分に考えられる事態だ。もしそうなったときに、いったん崩れ去ってしまった「生きる」目的を、どのようにして立て直していくべきなのか――そもそも、そんなことがはたして可能なのかどうか、誰にわかるだろう。それまで頑なに信じていたものが、じつは幻想でしかないとわかってなお、人間としての生をまっとうしていくことができるのか。本書『チャイルド44』は、そうした人間としての尊厳を問いかけずにはいられないものが、たしかにある。

 殺人鬼はこれからも殺しつづけるだろう。それが可能なのはそいつが並はずれて利口だからではない。そういう人間がいることを国家が認めようとしないからだ。全面的な免罪をそいつに与えてしまっているからだ。

 スターリン体制下のソビエト連邦で起きた、子どもばかりを狙う連続殺人事件の顛末を書いた本書であるが、その最大の特色は事件そのものではなく、事件が起こった時代背景にこそあると言っていい。第二次世界大戦によってファシズムを打倒し、偉大な革命を成し遂げたとされるソ連――だが、その「理想の国家」たるソ連の実状が、ともするとどんなに清廉潔白な人間でも国家叛逆の罪で逮捕されるかもしれないという恐怖政治であり、そこで暮らす人々にとって、逮捕されることは、そのまま有罪が確定されることであり、最悪の場合、自分も含めた血族すべての死につながる。そんな、私たち読者の感覚からすれば相当に抑圧された体制下にあるという印象を、まずは受けることになる。そして物語当初において、その象徴としての役割を請け負うのは、恐怖政治の代弁者たる国家保安省捜査官のひとり、レオ・デミドフという人物である。

 眉目秀麗で沈着冷静、とりわけ祖国を信じるという揺るぎない信念のもと、体制を揺るがす国内の異分子を取り締まるという任についているレオは、言ってみれば上からの命令に従順な国家の従僕だ。じっさい、本書冒頭において、彼はモスクワで起きたある子どもの死が不幸な事故であるという捜査結果を、被害者の家族に伝えるという任務を忠実にはたすのだが、そこには息子の死が殺人であるという父親の訴えを押さえ込むという存外の役割があった。そしてレオにとって、国家保安省の決定は絶対であり、彼は死体の検分さえしようとしなかった。死体を調べさえすれば、保安省からの報告とは食い違う点があることは明白であるにもかからず、彼がそうしなかったのは、革命を成し遂げたソ連に「犯罪は存在しない」という建前を、彼もまた基本的には信じきっていたからに他ならない。たとえ、その建前が矛盾に満ちたものであるとわかっていても、国家への忠誠心と、その国家を維持するという自身の任務への誇りが、上からの命令に疑問をもつという思考を妨げてしまう。いや、仮に疑問をもったとしても、それに無理やり理由をつけて自分をだまし、納得させてしまうと言ったほうがいい。

 子どもばかりを狙う連続殺人事件を扱った作品、というふうに私は上述したが、レオの立場からすれば、そもそもそうした事件は起こってさえいない、ということになっている。だが同時に、そうした連続殺人がもし本当にこの国で起こっているのだとすれば、それは何としても防がなければならない、という思いももっている。本書を読んでいくと少しずつわかってくることであるが、レオはたしかに上からの命令に忠実ではあるが、それは恐怖や打算といったものではなく、信じるに足るべきものを信じたいという強い思いゆえのものであることが見えてくる。それはある意味で、レオという人物の純粋さを示すものであるが、その純粋さゆえに、彼はときに無実の人間をスパイと認定し逮捕するという、本来なら間違いであるはずのことでさえ、国家の名のもとに真実として受け入れてしまう。それは装置の一部としては、このうえなく優秀で、また冷酷なものとして彼という人間を形づくっていると言える。

 ゆえに本書では、まず事件がたしかに事件であるという認識を、レオ自身が確信をもつようになるという過程が必要であり、その部分だけで物語全体の半分、つまり上下巻の本書の上巻をまるまる費やしている。それはたとえば、同じような連続殺人をあつかう作品にしてみれば、あるいは不要な部分でさえあるのだが、本書がことさらその部分に力を注いでいるのは、事件が事件として認識されるということが、レオにとっては捜査官という組織の一員から、まぎれもない自分という個人へと立ち返ることを意味するからである。そしてそのためには、彼は国家保安省捜査官でありつづけるわけにはいかない。レオの部下であり副官のワシーリーの狡猾な陰謀によって、彼が捜査官から地方の民警に降格左遷されるというイベントは、事件が連続殺人、それも単独犯による連続殺人であるという確たる証拠をつかむという意味もさることながら、多大な権力をもちながら、事件を事件とみなさないがゆえに無能者以上に無能でやっかいな捜査官という立場に対するアンチテーゼであり、またこのうえない皮肉ともなっている。

 一度権力の外に置かれた人間が、あらゆる逆境に打ちのめされながらも、なお殺人鬼の姿を求めて奮闘する姿は、そうした過程を経ているがゆえに感動的なものがある。そしてそこには、国家が与えてくれる権力ではなく、妻のライーザ―― 権力者とそれに従う者という恐怖を軸とする関係から解き放たれて、真の意味でのパートナーとして彼の傍に立つことを決意した女性をはじめとする、多くの無辜の人々の協力と助けをあおぐという方向へとシフトしていく。この転換があるからこそ、本書の人間ドラマは劇的なのだ。そういう意味で、本書は人間性の回復の物語であり、また自身の過去を見据えたうえで、それを忘れ去るのではなく、受け入れたうえで前進していこうとする人々の不屈の物語でもある。

 はたして、レオは殺人事件の真犯人を見つけ出すことができるのか、そしてそのために、どれだけの犠牲がともなうことになるのか。人として正しく生きることがこのうえなく難しい世界において、人間が人間としての心を求めていく物語の結末を、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.08.27)

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