【講談社】
『縮んだ愛』

佐川光晴著 
第24回野間文芸新人賞受賞作 



 何かひとつのことを長くつづけていくというのは、けっして容易なことではないし、たとえそれがどのようなことであれ、やはり賞賛されるべきことでもあるが、同時にそれは、ともすると日々のルーチンワークとなって、たんに消費していくだけのものと化す危険性を秘めてもいる。たとえば、私のこの書評サイトにしても、なんだかんだで十年近く更新を続けてきたことになるが、それはもちろん私自身の読書が好きだ、物語が好きだという気持ちがあるからこそ続けられたことであり、また、まだまだ私の知らない多くの本と出会いたい、という思いにけっして偽りがあるわけでもない。だがそれでも、本を読み、書評を書き、サイトを更新する、という一連の流れは、その年月によって私の生活におけるひとつのルーチンワークと化している部分があり、そのことになかば倦みつつある自分がいるのではないか、という不安が、ときに私の脳裏をよぎることがある。

 好きではじめたことのはずなのに、それが長くつづくことによって、いつのまにかその好きだという感情に何らかの変化が起きてしまう――それはあるいは、一時的な気分の問題であるのかもしれないし、もうその対象に飽きてしまったということであるのかもしれないが、ひとつたしかなことがあるとすれば、世の中に変わらないものなど何ひとつなく、それは自分自身の気持ちであってもけっして例外ではない、ということである。始まりがあれば、いつかは終わりが来る、それが人の世の道理だ。だが、だからといってそもそも何かを始めること自体が無駄だということではない。なぜなら、今はどうであれ、始めた当初に抱いていた思い、湧きあがる激しい感情は、たしかなものとして自身の心に残っているはずだからだ。それにもしその理屈を認めてしまったら、いつか必ず死を迎えることになる私たち人間の生そのものが無意味だということになってしまう。

 人と人とのつながりのなかで、私たちはさまざまな感情をいだくものであるし、そうした感情を通じて、私たちは少しずつまぎれもない自分自身というものを獲得していく。そういう意味で、愛情であれ憎悪であれ、自身の心のなかに生じる感情というのは、もっとも人間らしいもののひとつということができる。本書『縮んだ愛』に登場する岡田啓一は、障害児学級教員として小学校に勤務してきた五十歳のベテランとして物語の語り手をつとめることになるのだが、私が本書を読み終えてまず思ったのは、彼自身がもつ感情に対する妙に冷めたとらえかたの、はたしてどこまでがアルコールに拠るものなのか、どこまでが彼の本来の性格なのか、という点である。というのも、その結果如何によって、本書の冒頭で彼が宣言している「わたしを襲った生活の変化について、できるだけ正確かつ、正直に報告」する、という言葉の意味が変化してくるからである。

 上述したように、岡田は障害児学級の担当教員としてはベテランではあるが、自身の職業に対してとくに大きな情熱や熱意といったものをもっているわけではない。むしろ、こちらが根気よく読み書きや計算を教えていっても、学校を卒業してそれらの知識を使う機会にめぐまれることなく、ますます内に閉じこもるようになったまま、健常者よりも圧倒的に早く老いていってしまう障害児の教育に対して、途方もない徒労感をいだいているところがある。彼の冷めた視点の要因のひとつとして、そうした教育の虚しさが絡んでいるのはたしかであるが、それとは別に本書を読みすすめていくと、ひとりの教育者として感情に飲み込まれないようにする、という態度に重きを置いているところもあり、障害児への特別な感情移入や教育に対する熱意といったものが、むしろ児童教育の弊害になりかねない、という自論に忠実な教師、という一面が見えてくる。

 物語のなかで岡田は、かつて勤めていた小学校の卒業生である牧野直樹と出会う。当時は問題児として職員会議で話題にもなり、また当時岡田が受け持っていた自閉症児であるサトシを殴るという事件と、牧野の担当教師だった中村先生のその後の針路変更のこともあって、印象に残っていた生徒のひとりであったが、それが縁となって、牧野は友人をつれて岡田の家を訪れては、彼とともに酒を飲むということをくり返すようになる。

 過去に先生と生徒として多少なりとも接触があったとしても、そもそも担当だったわけでもない、かつての生徒のひとりにすぎない牧野が岡田の家に上がりこむようになる、という事態は、よくよく考えてみるとちょっと奇妙なことだといえる。回想という形をとった語り手の岡田が、あまりにも自然にそのことを受け入れているということと、その後に起きる事件――牧野が何者かに暴行を受け、昏睡状態に陥るという展開の衝撃のこともあって、ともすると読み流してしまいそうになるのだが、ごく普通に考えて、牧野のそうした行動が、岡田にとってけっして好ましいものではない、と考えるのは、それほど難しいことではない。では、なぜ岡田が牧野の来訪をそのたびごとに受け入れていたのか、と考えたときに、そもそも岡田がかなりの酒飲みである、という点が重要なものとして浮かび上がってくる。

 牧野が最初に岡田の家に来たときも、缶チューハイのケースを何箱か持参してきていた。そして岡田自身、自分はかなりの酒飲みだと認めるように、本書を読んでいくと、彼が酒を飲むというシーンがかなり多いということに気がつく。そして彼は酒に溺れたことはないと豪語し、あくまで「穏やかな酒」だと語るが、同時に酒をやめようとしたときのことにも触れており、そのときはイライラが募り、子供たちは寄りつかず、母親たちも妙によそよそしい態度になるので、けっきょく酒はやめられなかったと語っている。本書はあくまで岡田の一人称であり、そのなかで彼はごく普通の語り口であるばかりか、むしろ自身の職業についてさえ感情的になることなく、距離を置くだけの冷静さをもつ人物のように私たち読み手は受け取ってしまうが、もし本書が三人称で書かれていたとしたら、あるいはこの岡田という人物は重度のアルコール依存症、それも、あからさまに表面に出ることのない依存症として書かれるのではないか、という疑いが出てくるのだ。

 そうした可能性をふまえたうえで、あらためて本書を読みなおしてみると、ともすると感情的な態度で岡田をなじり、それゆえにますます冷静で落ち着いた性格という彼の存在を強調することになる妻香子の言動もまた、まったく異なった意味をもつことになる。もし、変わったのが妻や息子ではなく、岡田自身であるとしたら? 人と人とのかかわりあいのなかで、必然的に生じてくる感情のぶつかりあいに対して、正面からとらえるのではなく、アルコールの力を借りて逃げるという選択肢をとっていたのであれば、むしろ彼をとりまく現状の要因は、現実を受け入れず、なんらかの決着なり対策なりとることを先延ばしにしつづけてきた岡田自身にこそあると言える。そしてそんな彼の態度は、言うまでもなく間違ったものだ。

 死んだわけではないが、けっして人間として生きているというわけでもない状態になった牧野――身元保証人として彼のことを引き受けることになった岡田にとって、牧野の存在は中途半端な状態の象徴でもある。そしてもし、岡田がアルコール中毒であるとすれば、彼もまた現実と酩酊の狭間という、どちらでもない世界の境界を彷徨っていることになる。そして本書が、そんな岡田の一人称である以上、そのすべてが曖昧模糊としたものと化してしまう。はたして、彼の感情のどこまでが本物で、どこまでがアルコールによるものであるのか、あなたならどのような結論を出すのだろうか。(2008.07.22)

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