【岩波書店】
『キャラ化する/される子どもたち』

土井隆義著 



 以前紹介した脇明子の『物語が生きる力を育てる』のなかに、「不快感情除去マシーン」という言葉が出てくる。これは、テレビやゲーム、漫画、あるいはインターネットといった受動メディアを指す言葉で、自分にとって不愉快なもの、都合の悪いものをシャットダウンし、心地の良いものばかりに浸って生きることを容易にしている最たるものとして位置づけられている。言うまでもないことであるが、世のなかは多分に理不尽で不条理なものであり、そんな世界で生きていくのはけっして楽なことではない。だが、これら「不快感情除去マシーン」の存在は、少なくとも私たち個人にとって心地よい空間、あるいは心地よい時間を、それが一時的なものであれ演出してくれる。

 もちろん、こうしたものに頼ることが悪いというわけではないし、嫌なものばかりに溢れる現実からの一時的な逃避の手段としては、むしろ有効だとさえ言えるのだが、かつて三世代の家族がひとつの家のなかで暮らしてきた時代から核家族時代、そしてさらに個人を尊重する時代へと移り変わり、他者との断絶がより容易になった現代では、こうした受動メディアに浸りきり、ひたすら不愉快なものから目を背けつづけることも、また容易になったという事実がある。とくにインターネットの普及は、それが基本的に双方向のメディアであり、その気になればいくらでも広い世界へとつながっていけるはずの装置でもあるはずなのだが、今の私たちはむしろその自由度の高さゆえに、それで何を見聞するべきなのか途方にくれている、というのが現状である。何か明確に調べたいものがある場合は、インターネットは強力なツールであるが、それを娯楽として使う場合、結局のところ自分の見たいもの、聞きたいものしか検索しなくなる。そういう意味で、インターネットもまた強烈な「不快感情除去マシーン」として機能している。

 現代社会で何が起こっているのかを考えるとき、それを象徴するキーワードのひとつに「個人化」が挙げられる。これはたとえば、教育理念としての「個性の重視」にも表われているように、複雑化し多様化していく社会に対応できるような、柔軟で創造的な感性をもつ人間を育てる方向性を指すものであるが、この、お題目としてはじつに結構な「個人化」が、じつは多分に消費経済の都合によるものであるという指摘がある。たとえばテレビなどの家電製品は、以前は「一家に一台」というのが普通だったが、もし本当に普及してしまえば、社会の人口が増えない限りそれ以上の売り上げを期待することはできない。だが、もしこれが「一人一台」となれば、そのぶん利益を上げることが可能であるし、じっさいにそんなふうにテレビや電話は普及することになった。ゆえに、「個人化」というキーワードは、見方を変えれば「孤立化」ということになる。そういう意味で、今回紹介する岩波ブックレットの『キャラ化する/される子どもたち』という小冊子の出だしで、ケータイ(携帯電話)という「一人一台」の代名詞とも言えるツールを取りあげているのは、非常に印象的である。

 人間関係の維持に必須のツールとしてケータイを駆使する若い人たちが、その端末の「圏外」表示に覚える強い不安は、このように不都合な人間を圏外化しようとする心性の裏返しではないでしょうか。

 本書のタイトルこそ「キャラ化」という言葉が使われているが、このブックレットのキーワードとなっているのは、むしろサブタイトルにある「排除型社会」のほうである。この「排除」とは、自分にとって不都合なもの、わけのわからないもの、理解不能なものを視界から追い出し、認知の外に置いてしまう姿勢を指している。これは多様化、相対化の進む現代社会において、その流れを逆行するような姿勢であるが、上述したように、「不快感情除去マシーン」があたり前のように溢れ、個人化がより奨励される社会という視点でとらえてみると、むしろ必然の流れだと言える。

 人間関係とはときにややこしく、面倒くさいものである。そしてどんな親しい間柄であっても、相手のことを完璧に理解することなど不可能である。だからこそ私たちは、コミュニケーションの継続によって相互理解を努めつづけなければならないのだが、もしその関係がわずらわしいものであったときに、その改善をはかるか、あるいは無視してしまうかを選べるのであれば、ふつうはより楽なほうに――つまりは無視するほうを選ぶ。誰が好き好んで、成功するかどうかもわからない努力をするだろうか、という考えが、ふだんから不快なものを排除することに慣れた人であればあるほど浮かんでくるからだ。

 子どもたちの認識する世界はもともと挟小なもので、それゆえに彼らはちょっとしたことで容易に追い詰められてしまう傾向にあるのだが、本書で指摘されている子どもたちの世界は、それよりもさらに限られたものとなっている。同じクラスメイトであっても、お互いに気の合う数人程度のグループに分かれており、異なるグループとの交流がほとんどない、と述べている。彼らにとって異なるグループは、本書の言葉を借りるなら「圏外化」されているのだ。

 多様性が重視され、それぞれの個性が尊重される時代のなかで、はたして「個性」とは何なのか、という命題は非常にラディカルな視点である。だが、多様性を認めるということは、ある視点では正しかったものが、別の視点では誤ったものとなることが普通に起こる相対主義を認めることでもある。この世には数多くの考え方やものの見方が存在し、時代や立場によって、それらの価値は容易に変質していくのが現代である。そんななかで、確固とした「個性」を育んでいくのは、非常に難しいものがある。

 私が他ならぬ私であるという基盤は、じつのところどこにも存在しない。私たちがたしかに自分自身のものだと思い込んでいるものの大半は、じつは過去の誰がすでにあみだしたものにすぎなかったりする。それでなくとも私たちは、言語や時代などのさまざまな背景によって無自覚に構造づけられてしまっている。私たちにできるのは、自分以外のさまざまな他者と接していくことで、自分という輪郭をかろうじて浮かび上がらせることだけなのだ。

 自分を知るためには、他者とのコミュニケーションが必須である。だが、その大半を「圏外化」してしまう今の若者たちが接することができるのは、あくまで似たもの同士のグループ内の人たちだけである。そこで何が起こるのかといえば、自分という個性がどういうものなのかを知るための手段にすぎない人間関係が、そのまま自己肯定を維持するための目的へと変質することである。これが本書に書かれている「コミュニケーション至上主義」、あるいは「優しい関係」と呼ばれるものである。

 このような意味で、彼らが予定調和の世界から出ることはなく、相補関係を傷つけるような対立は、表面化しないように慎重に回避されています。彼らが求めているのは、摩擦のないフラットな関係なのです。

 よく、携帯電話のメールに対して数分以内に返事しなければならないとか、LINEに書きこんだメッセージが「既読」かどうかに神経を使うとかいった妙なルールが話題になるが、そもそもメールなどというのは、それほど即効性を求められるようなツールではないはずで、なぜ今の若者たちがそんなことに気を遣うのかがずっと謎だった。だが、本書で言われているように、彼らの認知する世界がほんの数人の仲良しグループの内に収まるようなものであるとすれば、すべて納得がいく。彼らは彼らのあいだでしょっちゅう連絡し合い、自分たちが同じグループに属していることを確認しつづけなければ、自分という個性を維持することができなくなっているのだ。

 現代社会が個人化の流れに傾いていき、その過程でそれぞれがそれぞれの不快なもの、深刻な衝突を避けるような行為に走ることが容易になることで、今の排除型社会が形成されていった、というのが本書の根幹にはある。そんななかで、今の若者たちは――そして、私もふくめた多くの大人たちも――自分という個性をきわめて狭い世界のなかのコミュニケーションによって維持していくことに慣れつつある。そして、今世間を騒がせている、たとえばTwitterでの犯罪告白などの問題もまた、こうした自己形成のゆがみによるものだと本書は語る。小冊子形式の、ごく薄い本書ではあるが、現代社会の実情をもっとも的確に捉えていると断言できるだけの内容をともなっている。今、この日本でどんなことが起こりつつあるのかを知りたいのであれば、ぜひ一度目をとおしてほしい本である。(2014.09.30)

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