【角川書店】
『アーモンド入りチョコレートのワルツ』

森絵都著 



 この書評をお読みの方で、もしかしたらご存知ないという方もいらっしゃるかもしれないが、私が小さい頃に住んでいた町には、「児童センター」と呼ばれる施設があった。そこは、おもに小学生を対象にトランポリンや卓球台、マットといった遊戯道具で遊ぶことのできる広い遊技室や、漫画や本を読むことができる図書室など、子どもたちが自由に遊ぶことのできるさまざまな器具や空間を無料で開放している施設で、私も小学生の頃はけっこう頻繁に利用していた記憶がある。

 やがて私は小学校を卒業し、晴れて地元の公立中学校に通うことになったが、ランドセルが学生カバンに変わり、髪型が坊主刈りになり、通う校舎も学ぶべき事柄も大きく変わったものの、ほとんどすべての友人がそのまま中学校に進学してしまうため、はじめの頃は何かが大きく変わった、という意識は私のなかにはほとんどなかった。自分はもう中学生であって、小学生ではない――そのことをはじめて実感させられたのは、じつは何気なく児童センターに入ろうとして、管理人のおじさんに入館を拒否されたその瞬間だったのである。

 今にして思えば、体格もますます大人へと成長していく中学生が児童センターのまわりをうろうろしていたら、それこそ他の小学生たちが自由に施設を利用できなくなる可能性もじゅうぶんありえるわけで、その管理人の対応はしごく当然のものではあったが、当時の私としては、それまで自由に出入りできたはずの場所から追い出されるというのは、それなりにショックな出来事だった。それはあるいは、その頃の私が、大きくなること、成長することが、自分の行動範囲を大きく広げてくれると信じて疑わなかったからこそのショックだったのかもしれない、とも思うのだが、そうした児童センター側の事情がわかったところで、私がそのとき受けたショックが消えるわけではないのもたしかなのだ。

 幼い頃はわからなかったいろいろな事柄が、大きくなるにつれてわかってくるようになる――それは、たしかに素晴らしいことではあるが、そうやって見えてくることのすべてが、必ずしも大きな喜びとともにやってくるわけではなく、ときには苦い思いをともなっていることもある。本書『アーモンド入りチョコレートのワルツ』は、表題作をふくむ三つの短編を収めた作品集であるが、いずれの作品にも共通して言えるのは、少年少女が成長していくときに誰しもが少なからず体験していく、何かが確実に終わってしまったと感じるときの、ちょっとした切ない気持ちが描かれている、という点である。そして、そんな気持ちを代弁してくれる音楽として、ピアノ曲というのはたしかにふさわしいように思える。

 ロベルト・シューマンの「子供の情景」、J・S・バッハの「ゴルドベルグ変奏曲」、そしてエリック・サティの「童話音楽の献立表」。これらのピアノ曲は、いずれも本書に収められた短編集『子供は眠る』、『彼女のアリア』、そして『アーモンド入りチョコレートのワルツ』のサブタイトルにもなっていて、それぞれの物語の進行に大きく関係してくる曲でもある。『子供は眠る』は、語り手である恭たち親戚のあいだで毎年夏休みの恒例となっている、海辺の別荘で子どもたちだけで過ごすというイベントのことを書いた作品であるが、そのなかでいつも中心となって子どもたちをまとめていく、最年長の章という少年が毎夜必ず恭たちに鑑賞させるのがロベルト・シューマンの「子供の情景」であるし、『彼女のアリア』では、不眠症を理由に学校の行事を抜け出した語り手の「ぼく」が、旧校舎で藤谷りえ子と出会うきっかけとなるのがJ・S・バッハの「ゴルドベルグ変奏曲」である。そして『アーモンド入りチョコレートのワルツ』のなかには、どこにでもエリック・サティの曲が流れている。変わり者で、奇行癖があり、しかしこのうえなく子どもたちを愛し、子どもたちのための曲をいくつも作曲したサティ――それはそのまま、語り手の奈緒が大好きな絹子先生であり、また彼女のピアノ教室に突然現われたフランス人のステファン、奈緒や君絵が「サティのおじさん」と呼ぶ男性の姿でもある。

 著者の森絵都は、思春期の少年少女の複雑で微妙な心の動きをとらえるのに長けた作家であり、著者の作品を読むと、いつも自身の少年少女だった頃のことを思い出してしまうようなところがあったりするのだが、本書において読者が何らかの懐かしさを覚えたとするなら、それはそれぞれの短編の舞台となる場所にも大きく影響されていると言うことができる。

『子供は眠る』で、いとこたちが毎年集まる海辺の別荘は、彼らにとっては日常生活で何かと干渉してくるうるさい両親のいない秘密基地のような輝きをともなっている場所であり、だからこそ恭たちは、章の機嫌をそこねて別荘に呼ばれなくなることをこのうえなく恐れていたし、『彼女のアリア』における旧校舎の音楽室は、「ぼく」と藤谷りえ子だけが知っている特別な場所だった。『アーモンド入りチョコレートのワルツ』にしても、奈緒が絹子先生やステファンと出会うのは決まって彼女のピアノ教室である。私も子どもだったときは、普段の自分の居場所――それは、たとえば学校の教室だったり、家のなかの自分の部屋だったりするのだが――とは違った、特別な居場所というものに憧れたものであるし、だからこそ、たとえば高楼方子の『十一月の扉』のような、ひそやかな別世界を描いた作品に子どもたちは惹かれていくものであるが、本書の舞台となる別荘や旧校舎といった場所には、それ以上の意味がふくまれている。『彼女のアリア』で虚言癖のある藤谷りえ子にしろ、『アーモンド入りチョコレートのワルツ』における絹子やステファン、あるいは負けん気の強く、それゆえにクラスのなかでは浮いた存在だった君絵など、ともすると変人あつかいされて一線を引かれてしまう人たちが、周囲を気にすることなく思う存分自分らしくいることのできる、という意味で、その場所は彼らにとって何よりも大切なものとなっているのだ。

 だが、子どもの頃につくった秘密基地が、けっしていつまでもその原形をとどめてはいられないように、本書で登場人物たちが集まる場所でも、何らかの変化を余儀なくされる事件が起こる。それは、上述したように苦い思いとともに少年少女たちを打ちのめすものであるのだが、いずれの短編のおいても、著者はそうした変化の果てにちょっとした救いを用意しておくのを忘れない。

 どんなものも、いずれは必ず変化していくものであり、変わらないものなどこの世に存在するはずもない。だが、にもかかわらず、本書を読み終えた読者は、それでもなお前向きに生きていこうとする登場人物たちの姿に心打たれることになる。これは、間違いなく著者の力量のなせるわざである。

「あたしたちが大人になったらさ、好きなもんを好きなように好きなだけ作って、そんで毎日を木曜日みたいに、きらきらさせてやろうな。そんで、そんで――(中略)――そんで絶対に、終わらせないんだ」

(『アーモンド入りチョコレートのワルツ』より)

 中学生になって児童センターに入るのを拒否されてから、私はけっきょく一度として児童センターに足を向けることはなかった。その後、児童センターがどのように変化をとげたのかはわからないが、不思議なことに、頻繁に児童センターに通っていた頃よりも、そこに入れなくなってからの頃のほうが、そのときそこに何があり、どんなふうに友だちと遊んだのかを鮮明に思い出すことができることに、本書を読み終えてはじめて気がついた。変わらないものなど、この世には存在しない。だが、そのとき自分が考え、感じたさまざまなことは、その人の心のなかにいつまでも変わらず残っているものである。そして、著者は誰よりもそのことをよく知っているに違いない。(2005.08.29)

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