【角川書店】
『金星を追いかけて』

アンドレア・ウルフ著/矢羽野薫訳 

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 天文学という学問に私が惹かれる要因のひとつとして、ある事物に対する客観的な視点というものがある。もちろん、天文学にかぎらずあらゆる科学の分野において、客観的視点の獲得というのは基礎中の基礎ではあるのだが、天文学の場合、それこそ自分たちが生きている世界、地球という惑星をはるか外から俯瞰するというスケールの大きさが要求される。

 今でこそ私たちは、あたりまえの知識として自分たちのいる地球が球体の惑星であり、また太陽を中心にした銀河系の惑星のひとつとして、太陽の周囲を巡っていることを知っているが、それはあくまで「知識として」でしかなく、たとえば地球を外から眺めて確認したわけではない。よく「自分の目で見たものしか信じない」という趣旨の考え方を標榜する人たちがいるが、ちっぽけな人間でしかない私たちが、地球が球体であるという事実を「目で見て」確認することは容易ではない。天文学とは、そうした目ではとらえられないほど巨大な事象に対して、それがたしかな事実であると証明することができる学問でもあるのだが、そのスケールの大きさ――まさに、自分たちの世界をまるごと外から眺めるという視点は、自分という存在をふくめたすべてを相対的にとらえることの先駆けとなったはずである。

 ひとつの世界のなかにとらわれているはずの人間が、その世界そのものを客観視するというのは、考えてみればとてつもない想像力である。天文学のそうしたかぎりない想像力の飛躍こそが、私の天文学への憧れの一要因ともなっているのだが、今回紹介する本書『金星を追いかけて』は、まさに地球規模の科学的プロジェクトを、十八世紀という時代に実現させるために奮闘した者たちの物語だと言うことができる。

 ヨーロッパの天文学の中心だった天文台を離れ、当時知られていた世界の最果てを目指した科学者たちは、未知の冒険に挑んだ。一見すると英雄とは縁がなさそうに思えるかもしれないが、金星を追いかけて地球を横断した彼らの旅は、恐れを知らない大胆さと創意工夫にあふれる探検だった。

 上述の引用にも登場し、また本書のタイトルにもなっている「金星を追いかけて」――その具体的な内容は、一七六一年六月六日と一七六九年六月三日に生じる天文現象、金星が太陽の表面を横切る日面経過の観測のことを指している。太陽と金星と地球が一直線に並ぶときにのみ生じるこの天文現象は、八年間隔の二回一組で起こったあとは、百年以上経過しないとふたたび見ることのできないものであり、その時代に生きる人たちにとって、まさに生涯に一度見られるかどうかという意味でも貴重な現象であることは間違いないのだが、ただ観測するだけであれば、それこそ天文台でもできないことではない。この時代における「金星の日面経過」が重要な意味を帯びているのは、イギリスの天文学者であるエドモンド・ハレーによって提唱された、ある壮大なプロジェクトと大きな関係がある。

 すでに地動説が定説として認められ、科学技術が人類の進歩と分かちがたく結びついていた時代、天文学もまた占星術といった呪術的なものから、天体の運行を測定する科学として定着しつつあった。もし、金星が太陽面を通過する正確なタイミングと、経過に要した時間が測定できれば、地球と太陽との距離を測ることができるとハレーは考えていた。そしてそれは、宇宙の大きさを客観視するための第一歩となるものでもあった。宇宙という「神の領域」に、人間の英知の手が届く――本書においてハレーが提案し、フランスの天文学者ジョゼフ=ニコラ・ドリルが改善を加え、世界的なプロジェクトとして立ち上げた今回の観測において、もっとも重要なのは、世界各地で観測を行なって、そのデータを収集して検証するという点にあった。

 ヨーロッパ諸国による世界の植民地化が推し進められていたものの、世界にはいまだ未踏の地が存在し、航海術も今ほどの発展を遂げていなかった時代である。大陸から海原に出ることそのものが、まだまだ命を懸けての一大事業であったこの時代において、それこそ世界の果てまで行って金星を観測しようという試みは、ダイナミックである以上に無謀な試みでもある。本書はそうした無謀な試みにあえて挑んだ人たちの物語ではあるが、そこには特定の誰かを主人公にするような視点はなく、あくまで二回にわたって行なわれた世界規模での「金星の日面経過」観測の顛末を報告するかのような筆致を貫いている。だが、あるいは凍てつく氷の地を北へ、あるいは船に乗り込み、赤道を越えてさらに南半球へと、さまざまな困難をともなう旅路をつづける彼らの姿は、下手な修辞よりも彼らの科学者としての矜持や尽きせぬ情熱の一端を鮮明に浮かびあがらせ、私たち読者の胸に届くようなところがある。

 国や宗教、経済的状況や身分といった既存の価値観を超え、ひとつの壮大な目的のために多くの人たちが尽力するというのは、それだけで感動的なシチュエーションではあるが、本書はけっしてそんな浪漫的な要素だけで成り立っているわけではない。単純に天体観測とは言っても、遠くの地に行くには交通費や食費など多くの資金を必要とするし、観測道具の維持もけっしてタダではない。ましてそこが僻地であればなおのことだ。それらの資金を提供するスポンサーとなるのは、必然的に王侯貴族といった者たちとなるのだが、科学者たちはそうしたスポンサーを説得する材料として、植民地拡大のための先行投資という名目を利用する。

 その時代における航海術がまだまだ未熟であることは少しだけ上述したが、それは確立された航海路が限られていること、そしてその要因として海洋における現在位置の確認が精確ではない、というものがあった。広大な砂漠を走るごく一部の道路だけを使っているような状態であり、敵対する国の船どおしがよく接触し、戦闘状態に入ることも珍しくないというのが当時の航海だった。そして当時の天文学者たちは、天文学という学問が航海術の発展に、しいては未知の大陸を植民地化する可能性を秘めていることをよく知っていた。たんに個人の情熱や好奇心だけでは、今回の世界的プロジェクトは成り立たない――そういう意味で、彼らはしたたかな一面をもっているし、何より「宇宙の大きさ」を測るという歴史的快挙に自分の名を残したいという名誉欲について相当なものがあることは、本書を読み進めていけばおのずと見えてくることでもある。

 そして、そうした科学者たちの思惑とは別に、スポンサー側の思惑というものについても、本書では触れられている。じっさい、二回目の「日面経過」の観測のさいには、ロシアをはじめとする各国が、今回の遠征をたんなる天体観測としてだけでなく、土壌や気候、植物採集といった総合的な科学調査の一環ととらえているところがあり、そのためにさまざまな分野の科学者を動向させていたりする。さらに言うなら、これらのプロジェクトはどこまでも帝国主義国家の思惑にのっとったものであって、植民地化される側の人たちのことは考慮の外である。

 本書を読んでいて面白いと個人的に思ったのは、本書の視点が現代ではなく、あくまで金星の観測がおこなわれた十八世紀ヨーロッパ人の視点に固定されている点だ。この時代の西欧人の主要な考えは、自分たちが人類の進化の最先端を走っているという強烈な自己意識である。そしてそれは、十八世紀という時代においては常識すぎて意識されることもない事柄であり、今のような相対主義が主流になるのは、ようやく二十世紀になってからのことである。今回の世界的プロジェクトについても、西欧列強の植民地化政策によって世界じゅうに領土を拡大してきたからこそ出てきた発想だった一面もあり、そのあたりについて、現代を生きる私たちはなんとも皮肉なものだと感じずにはいられないのだが、少なくとも本書のなかで生きる人たちの、科学への大きな期待感、昂揚感などがリアルに伝わってくるのは、そうした視点ゆえのものだと言うことができる。

 さまざまな人たちのさまざまな思惑、そして何より観測当時の天候にその成否がかかっている本書のプロジェクトは、はたしてどのような結末をもたらし、その結果が彼らの人生にどのような影響をおよぼすことになるのか――個々人の悲喜劇もふくめ、世界的プロジェクトの先駆けとなったと言ってもいい今回の天体観測の模様を、ぜひ楽しんでもらいたい。(2013.07.30)

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