【集英社】
『23分間の奇跡』

ジェームズ・クラベル著/青島幸男訳 



 みなさん、こんにちは。わたしが、きょうからこのサイトの書評を担当することになりました。とつぜんのことでおどろいている方も多いでしょうが、以前の担当はまちがった考えをあらためるために、あるがっこうに通うことになりました。でもしんぱいはまったくいりません。このサイトの書評をよりよいものにすることが、わたしのやくめです。

 今回しょうかいするのは、『23分間の奇跡』という短編です。これはある学校にあたらしい先生がやってきて、生徒たちとすごしたさいしょの23分間のことを書いたもので、ものの5分もあれば読めてしまうほどみじかいおはなしです。このあたらしい先生――彼女はまだ十九歳というわかさの女性なのですが――が、教室にはいってから23分間のあいだにどんなことがおこったのかというと、かのじょはすっかり「いい先生」として、生徒たちのしんらいをつかんでしまうのです。いったい、どんなまほうをつかったというのでしょう。きょうはその方法についてとりあげていきたいとおもいます。この方法を使えば、どれだけはんこうてきな人のこころも、思いどおりにコントロールすることができるようになります。

 まずはフレンドリーなふんいきでせっしましょう。本書のあたらしい先生は、こわがっている子どもたちにたいして、かれらの目線にたってはなしをするようにこころがけています。先生というのは、えてして先生としての権威をたもとうと、ひつよういじょうにいばったり、おおきな声でどなったり、あるいはたいばつとしょうしたぼうりょくをふるうことをしたりしますが、それではいけません。まずは生徒たちに、じぶんが味方であることをいんしょうづけるのがたいせつです。

 じぶんが味方であることを子どもたちに「教育」するひつようはありません。あくまでさいしょはいんしょうづけることができればじゅうぶんです。教育するのはそのあとです。そしてそのためには、「まちがい」と「せいかい」をはっきりさせるのがよいでしょう。本書のばあい、「まちがい」ははっきりしています。せんそうで負けた国が、それまでおこなってきた教育方針です。その国のしどうしゃたちは、まちがいおかしました。だからせんそうに負けたのです。ほんとうはこくみんのみんなもまちがっていたのですが、そこはたいした問題ではありません。こくみんのこころはちょっとしたことにすぐながされていきます。ただそれだけのことです。ましてやすなおな子どもたちであれば、なおのことです。

 ですが、それまでの教育方針が「まちがい」であることをあたまごなしに教えようとしてはいけません。かれらはなにより、おとなのかおいろをうかがうのがとくいです。生徒たちの「おせっきょう」を聞かないのうりょくはたいしたものです。おとなたちがせっきょうしようとすると、かれらはたちまち「はなしを聞かない」モードにはいってしまいます。そうなったら、何をかたったところでいみがありません。

 そうならないためには、あくまであいてが自発的にかんがえるように、ゆうどうしてあげるひつようがあります。そのためにはまず、かれらの「あたりまえ」について、ぎもんをもたせるようにしてみましょう。子どもたちがあたりまえのものとして守っていることがらのたいはんは、そのいみもわからないままにやらされていることばかりです。そこに「なぜ」というぎもんをぶつけると、子どもたちはこんらんします。ほんとうは、そこにはなんらかのいみがあるものですが、そもそも子どもたちには、何がかちのあるものなのか、はんだんするためのざいりょうも、けいけんも足りていません。ならば、そのたりないところをおぎなってあげればいいのです。むずかしくかんがえるひつようはありません。

 いちど生徒たちにぎもんをもたせることができたら、あとは「せいかい」となる方針をしめしてあげましょう。ただし、「これしかない」という、にげみちをふさぐようなやりかたはいけません。かちかんのきゅうなへんこうは、子どもたちになんらかのストレスをかけることです。ですがそこに「ぬけみち」を用意しておくと、子どもたちはわりとあっさりとタブーをやぶります。それだけじゅうなんなあたまをしているということですが、それをりようしない手はありません。本書のあたらしい先生は、きょうしつのたいせつな国旗を、バラバラにきりきざむことに成功していますが、生徒たちがそのことにさんせいしたのは、そのたいせつな国旗を、「それぞれがもっているほうがいい」というほうべんをよういしたからです。かれらにとって国旗をきりきざむことが、よりよいこととなったのです。

 ほんらいは「まちがい」であることが、もののみかたによって「せいかい」になるというのは、よくあることです。ですがこうしたかんがえかたは、子どもたちにはなかなかむずかしいものです。どちらもそれぞれの「せいぎ」のためにせんそうをしている、などと言っても、ふあんになるだけです。これは子どもだけではなく、おとなにだってあてはまることですが、人というのは、こむずかしい真理よりは、わかりやすい嘘のほうをしんじたがるものです。たいせつなのは、いかにして「しんじたがる」人のこころをつかみ、それとなくゆうどうしてやるか、ということてす。

 人のこころをゆうどうする、というと、ことばたくみにあいてをだますことのように思ってしまいますが、本書のあたらしい先生は、まったくといっていいほど嘘はついていないし、教師としての権威にうったえるようなこともしていません。言っていることはことごとく「ただしい」ことばかりです。にもかかわらず、かのじょは生徒たちに、それまでの教育方針が「まちがい」であるといういしきを、まるでじぶんたちのちからでみつけだしたかのように思わせることにせいこうしました。これは、かのじょが「ただしい」からなのでしょうか? いいえ、ちがいます。そこには目にはみえませんが、めいかくな「意図」があります。このさくひんがかたっているのは、人はぎじゅつやノウハウによっていくらでもだますことができるし、またいくらでもだまされることができる、ということです。そこにものごとのただしさは、まったくかんけいありません。

 このサイトの以前の担当がめいかくな「意図」のもとにやってきたことも、まさにこのこととおなじです。かれの「どんな本でもほめる」という方針は、いちめんでは「せいかい」なのですが、べつのいちめんでは「まちがい」です。なぜなら本というのは、それをよむ人によって、おおきく感じかたが変わるものだからです。本をよむことで、ほんとうならいろいろなかんがえかたや、かんじかたがあるはずなのに、前の担当はそこに「ほめる」といういっぽうてきな方針をはさむことで、いくつものかのうせいを「まちがい」としてほうむりさってしまっていました。それはかれじしんのためにもなりませんし、かれが評するさくひんじしんのためにもなりません。人はもっとじゆうに本をよむべきです。

 この書評をよんでいるみなさんは、以前の担当のようなまちがった考えかたをしないようにしましょう。わたしももっとべんきょうして、よりよい担当になりたいとおもっています。(2013.08.07)

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