【角川書店】
『冷静と情熱のあいだ』
−Blu−

辻仁成著 

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 流れていく時の前にはすべてのものが平等であるが、それを受け止める人の心は、必ずしも時の流れに従順なわけではない。過去の記憶のなかに生きる者、未来の可能性を見つめて前へ進む者、そして「今」という瞬間の積み重ねを大切にしようとする者――人は常に変化していく絶対的な時間ではなく、自分がもっとも心地よいと感じる相対的な時間の中で生きている。

 本書『冷静と情熱のあいだ−Blu−』の語り手である阿形順正の心は、今もなお「過去」の中に生きている。16世紀の空気のなかに街全体を封じ込めてしまった古都フィレンツェ、ことあるごとに思い出される過去の記憶と深い後悔の念、そして、無邪気な子供のように、全身で愛していると告げてくれる美しい芽実――だが、順正はそんな彼女の愛をいとおしく思うことはできても、それと同じ愛を返してあげることができない。

 過去はすでに確定されてしまった事実であり、けっして取り戻すことも、修正することもできない領域にあるものだ。だからこそ、人々はときに過去を忘れ、一歩を踏み出すために未来へと目を向ける。過ぎ去った時間ばかりにとらわれるのは、たしかに愚かしいことなのかもしれない。しかし、その過去に何らかの決着をつけなければ、一歩も前に進めない、という状況もたしかにある。
 そういう意味で、順正が絵を描くという創作活動から、古い絵を修復するという仕事へと心が傾いていったのは、非常に暗示的であるが、修復士の仕事がたんに過去だけを向いているのではなく、過去から未来へと素晴らしい芸術を、そこに込められた魂を橋渡しするものである以上、どんなに経験と技術を身につけようと、いつかは行き詰まってしまうことになる。

 順正にとっての「今」とは、あおいと過ごした過去の残像によって再構成された、はてない懺悔の時間なのだ。

 過去の思い出は、時間とともに変質していく。忘れる、という能力は、人類にとって大きな救いをもたらすもののひとつであるが、それゆえに、過去の出来事を正確に記憶しつづけていくというのは、並大抵のことではない。それが、当人にとってつらい過去であるなら、なおさらのことだ。過去の思い出をずっと持ちつづけること――恋愛というものが、愛情も憎悪もすべてひっくるめて、お互いをかけがえのない人間として認め合うことであるとするなら、距離を置き、かつて愛し合った過去を冷静に見つめることで、順正のあおいへの想いはよりいっそう深まった、と言うことができるだろう。そして、その想いが深まれば深まるほど、芽実との関係の温度差は広がっていく。圧倒的な現実をも凌駕していく過去――順正には今の生活があり、修復士としての仕事があり、芽実という恋人もいるはずなのに、そのすべてを覆いつくすかのような、ひとつの確固とした過去への想い、あおいとのかつての恋が、彼の周囲で起こるいろいろな出来事を経て徐々に高まっていく様子を見事に描いているのは、さすが『愛をください』の、たったひとりの女性の幸せを強く願う男の物語を描いた辻仁成だと言わなければなるまい。

「ぼくはこの街で、自分を再生させることができるだろうか」と、順正は自分に問いかける。その問いかけは、そのまま油彩画の修復に向き合う姿そのものでもある。修復士としての道に行き詰まって東京に戻り、おもいがけない形でかつての悲劇の真相を知ることになった順正が、その後に引き受けるフランチェスコ・コッツァの修復を手掛ける場面は、だからこそ秀逸である。それは過去を必死に育てながら、そのじつ過去の思い出をもてあそんできたことを認めた順正が、すべてが終わった東京の街で、自分を再生させる最初の瞬間でもある。過去から現在へ、そして未来へ――物語は、かつて恋人だったあおいが冗談のように口にした、ある約束へと収束していく。

 フィレンツェのドゥオモ、その屋上、二〇〇〇年五月二十五日、あおいの三十歳の誕生日。人々が過去を維持するためにのみ生きている街で、もっとも天に近い場所、そして、愛する人どおしがのぼる場所――はたして、あおいはその約束を覚えているだろうか、そして順正は、10年という、おそらく元に戻るにはあまりにも長すぎる時の隔たりをどんなふうに見据え、けっして振り払うことのできない過去とどのような決別をはたすのか。

 本書はもちろん、この一冊だけでもひとつの物語として成立はするが、まったく同じタイトルの小説『冷静と情熱のあいだ−Rosso−』という小説と対になってはじめて完結する、深く激しい恋愛小説だと言うことができる。ちなみに、江國香織が書いた方は、あおいを語り手としたもので、そこにはふたりが別れてしまったあとの、順正の知らない人生を過ごしてきたあおいが描かれている。そして、物語のなかでふたりは何度かすれ違ったり、同じ場所を時間差で訪れたりする。恋愛小説の内容としてはごくありふれたストーリーでありながら、本書で順正が見た過去の残像が、もうひとつの物語に微妙な影響をもたらす符合になっていたりするのを確かめることができるのは、かつて恋人どおしだったという要素だけをもとに、男と女の視点からそれぞれの物語を、ふたりの作家が書くことで生まれた、新たな読書の楽しみだと言えるだろう。

 かつて、運命に導かれるままに情熱的な恋におちた男と女がいた。まるで、引き裂かれてしまった自分の半身を見出したかのようにお互いのすべてをさらけ出し、激しく愛し合い、その愛は永遠につづくと信じて疑わなかった。しかし、情熱だけで満たされていた時期は、もう過去のものとなった。悲しい誤解が生んだ10年という歳月を超えて、ひとつのささやかな約束が果たされたとき、順正の心にもたらされるかつての情熱と、失われてしまったものの大きさを認めずにはいられない冷静さ――あなたは順正のなかの「冷静と情熱のあいだ」に、何を見ることになるだろうか。(2001.12.29)

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