【国書刊行会】
『ケルベロス第五の首』

ジーン・ウルフ著/柳下毅一郎訳 



 私たちの生きるこの世界は、常に変化しつづけている。変化とは、一種の破壊でもある。形あるものはいつか壊れ、個体としての生物も、いつかはかならず死を迎える。進化の過程において淘汰された種ははかりしれない数におよび、過去の歴史においては、どんなに強大で栄華を誇った王朝や帝国も、いずれは滅んでいく運命にある。すぐれた文化や伝統、芸術など、後世まで残しておきたいと思うものは数多く、それを強く願う人の思いもけっして少なくはないが、時の流れはそうした願いとは無関係に、しばしば無慈悲なまでにあらゆるものを押し流していってしまう。そして、この時間の不可逆性という性質は、一度失われてしまったものは二度と取り戻すことができない、という厳然たる事実を私たちに突きつけてくる。

 だが、そうした理屈を頭で理解していながら――いや、理解できているからこそ、というべきなのか、私たちはそれでもなお、その失われてしまったものを取り返したい、という欲求にとらわれてしまうことがある。求めてもけっして得られないとわかっているものを、それでも得ようとするとき、人はどんな行為に走り、あるいはその補完として何を求めることになるのか、ということを考えたとき、たとえばある種の小説家が、自身の世界を再構築するために――とうてい受け入れがたい現実に対して、自身の納得のいくもうひとつの世界を生み出そうとするために小説を書く、という心理と似たようなものを感じとることがある。

 それは、あるいは無益で愚かな行為であるかもしれないし、ある種のノスタルジーでしかないのかもしれないが、その一方で、そうした動機で書かれた小説に感銘を受けることがあるように、失われたもの、過去になってしまったものを取り戻そうとする行為のなかにも、何がしか私たちの心を揺さぶるものがある、というのもまた、ひとつの事実である。私たちの心は、かならずしも時間と同じように不可逆性をたもっているわけではないのだ。

 進化の過程で退化した器官は決して元の大きさを取り戻すことはなく、失われた期間は決して取り戻せない。もし子孫が、退化した器官が重要な役割を占めていた生活様式に戻った場合にも、痕跡器官が元の状態に戻ることはなく、生物はその代用品を作りだす。

 本書『ケルベロス第五の首』という作品について、何かを語るのはけっして容易なことではない。その最大の要因となっているのは、本書が最終的に何らかの真実を――ミステリーでいうところの謎解きの部分に読者を導くことを目的としているわけではないところにある。たとえば、本書は表題作のほかに「『ある物語』ジョン・V・マーシュ作」「V・R・T」の三つの短編を収めた作品集だと言うことができる。そして、それぞれの作品が遠い未来の世界、人類が遠い星々を旅し、地球以外の惑星を移住地として開拓できるほどの高度なテクノロジーをもつようになった時代に、そうした移住地のひとつである双子惑星、サント・クロアとサント・アンヌを舞台にした物語であると説明することもできる。ゆえに、本書はSFというジャンルに属する作品であると結論づけることもできるだろう。だが、本書のことを語るのに、そうした要素はじつはさほど重要とは言えないし、むしろそうした説明をいっさい抜きにして読み進めていったほうが、あるいは本書の意図に沿うことになるのかもしれないのだ。

 表題作である「ケルベロス第五の首」は、サント・クロワのポート・ミミゾンにある「犬の館」で育った兄弟の物語である。父親はその界隈ではそれなりの名士ではあるが、数々のいかがわしい研究を繰り返していることでも有名でもある。そして、その世界のなかでは――というよりも、一人称で語る「私」のなかでは、たとえば子どもたちが売買されていたり、奴隷に非人道的な手術がおこなわれることが日常茶飯事であるかのように語られており、それだけで読者は何らかの違和感を覚えずにはいられない構造となっている。そして、その違和感はしだいに「私」とデイヴィッドの兄弟の出自にもおよんでいく。はたして「私」とは誰で、何のためにここにいるのか、というアイデンティティの問題が提起されることになるが、たんにそれだけであれば、わざわざ上述したようなSF的な設定は必要ではないはずである。

 こうした疑問は、他の二作品にも同様に言えることであり、「『ある物語』ジョン・V・マーシュ作」については、サント・アンヌにかつて存在していたという原住民のものと思われる伝承のひとつを書いたものであり、「V・R・T」にいたっては、その原住民の生存をたしかめようとするマーシュ博士がサント・クロワで逮捕され、囚人として尋問を受けており、そのいっぽうでマーシュ博士がサント・アンヌでの出来事を書き記した記録を、彼の尋問を担当する人物が読み進めていく、という内容である。そしてここにいたって、これら三つの短編の基底に流れているのが、人類が移住する前にサント・アンヌに暮らしていたとされる原住民のことだということが見えてくる。言ってみれば、本書の三つの作品は、すべてサント・アンヌの原住民の存在を浮き上がらせるために書かれたものなのだ。

 このサント・アンヌの原住民とは、いったいどのような存在なのか。そもそもそんな原住民が本当に存在していたのか、あるいは人類の移住のさいに滅ぼされてしまったのか、それとも今もなおひっそりとどこかで生きているのか、その真偽については本書のなかで語られることはない。本書をつうじてかろうじて伝わってくるのは、状況証拠的にその痕跡が見られるといった程度のことでしかないのだが、このきわめて不確かな存在を、間違いなく本書のテーマの中心にのし上げているひとつの特長が、「ケルベロス第五の首」に出てくる「ヴェールの仮説」と呼ばれるものである。

「ヴェールの仮説は原住民(アボ)が人類を完璧に真似る能力を持っていたという仮説に基づきます。ヴェールは、地球から船が着くと、アボは乗員を皆殺しにして船を奪ったと考えました。だから連中は死んでなどおらず、ぼくらが死んだんです」

 このいっけん突飛な仮説が本当のことだとすると、本書に登場するサント・クロアやサント・アンヌの住人たちは、いずれも人類を真似た原住民か、その末裔ということになってしまう。そして、この説の面白いところは、原住民が本当に完璧に人類を真似ることができたのであれば、人類になった時点でその能力は失われてしまい、かつて原住民だった人類は、そのことすら忘れてしまっているに違いない、という点にある。

 原住民がたしかにいたという状況証拠はある。そして、かつて彼らの姿を見たという人も多数いる。にもかかわらず、現在において原住民の姿を見たものはいない。ふつうであれば、滅んでしまったか、どこか遠くに行ってしまったか、ということになるのだが、ヴェールの仮説をとるのであれば、彼らは人類になりかわったということになる。そして、彼らの模倣能力が完璧である以上、私たちにその真偽をたしかめる術はない。この仮説自体が真偽をたしかめることを拒否してしまっていると言い換えてもいいのだが、重要なのは、そんな奇抜な仮説がなぜ、なんのために必要となってしまったのか、ということである。

 もし、原住民の存在がこのうえなく貴重なものだと考えている人がいて、それがどうしようもなく失われてしまっていたと知ったら、彼はどうするだろうか。ヴェールの仮説の存在は、原住民が今もなお生き残っていることを示す仮説であり、それは真偽うんぬんを問われる以前に、その人にとっての唯一の希望であったはずである。そして、本書を読んでみてあらためて見えてくるのは、失われてしまったもの、あるいは過ぎ去ってしまった時を求めてあがきつづける人々の姿である。自分のクローンをつくって高度な教育をさせる。あらたな伝承を創作する。あるいは、自身の幻想世界のなかに逃げ込む――そうした希望と現実のせめぎあいの末に、その境界線が極限まであいまいにされていく過程こそが、本書の醍醐味だと言える。

 人は誰もが、なんらかの過去を引きずらずにはいられない生き物である。それは、人が自身の生まれ落ちる時代や環境を選べないのと同じくらい、運命的なものでもある。だが、そうした運命になお抗って生きようとした人々が、最終的に自身の存在の定義すらあいまいにしていく状況は、あるいはかつて完璧な模倣能力をもっていた原住民が、その完璧さゆえに失ってしまった模倣――なんにでもなれるという自由へと近づくための、非可逆性への道だったのではないか、と思わずにはいられない。(2006.07.24)

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