【岩波書店】
『緑の家』

バルガス=リョサ著/木村榮一訳 



 人を寄せつけない深い密林のイメージに、ある種の憧れをいだいてしまうのは、そこにこれまで見たこともない不思議な何か――それこそ、レドモンド・オハンロンの『コンゴ・ジャーニー』のなかで語り伝えられている幻の恐竜モケレ・ムベンベのような非日常が存在しているのではないか、という期待と、その何かに接したい、調べたいという人間の飽くなき好奇心ゆえのものである。だが、そのいっぽうで人間はこれまで見たことのないもの、人智で計り知れないような未知のものに対する恐怖を持ち合わせてもいる。それは、人間の生存本能のなせる業であり、自分がよく知っている日常のなかで安定していたい、安らぎたいという願望だ。

 未知のものに対する好奇心と恐怖は、じつは表裏一体のものでもある。知らないものだからこそそれに接し、自分のよく知る世界のなかに取り込んでしまうか、知らないものだからこそ排除してしまうかの違いであって、どちらもじつは生物的な生への本能に近いものだと言うことができる。そして私たちの生きる人間社会は、まさにそうした感情とともに、自分たちの生きる世界を拡大し、それを取り込んでいくことで発達していった。そういう意味では、今ではあたり前のものとなっている日常のものも、過去においては、それこそ人跡未踏のジャングルのように未知のものだったということであり、ただ時間の経過だけが、その属性を決定しているにすぎない、ということになる。

 本書のタイトルとなっている『緑の家』とは、南米ペルーにある砂漠の町ピウラの郊外に建てられた売春宿のことである。建物全体が緑色で塗られていたことから、町の人々から知らず知らずのうちに呼ばれるようになった名前であるが、じつは本書における「緑の家」には二種類存在する。ひとつは、ピウラの町に流れ着いた放浪のハープ弾きアンセルモが建設したもので、この初代「緑の家」は、彼自身が引き起こしたある事件が引き金となって焼き討ちにあい、今は存在していない。もうひとつの「緑の家」は、そのずっと後になってラ・チュンガという女性が再建したものであるが、本書を読んでいくとわかってくるのは、この時間差――じっさいには、20年以上の隔たりがあるはずのこの時間差はおろか、アンセルモとラ・チュンガとの関係や、なぜラ・チュンガが「緑の家」を再建しようとしたのかといった経緯が、最初の段階ではまったく説明のないまま、いくつかの物語が錯綜するように続いていくという点である。

 たとえば、本書の主要人物のひとりとして、ボニファシアという女性が登場する。彼女が幼い頃に、アマゾン流域で原始的な生活を営んでいる部族からの「救出」と「教育」という名の下に連れ去られた少女であることは、比較的容易に察することができるのだが、その同じ名前をもつ女性が、次の章になると「緑の家」で働いていると告げられる。じっさいには、このふたつの章のあいだには長い時間の経過があるのだが、ボニファシアの物語そのものが時系列を無視した形で綴られているため、読者はその断絶された時間のあいだにいったい何が起こったのか、いや、そもそもこのふたつの章のあいだではどれだけの時間が経過しているのかがわからない状態で物語を読み進めていかなければならないことになる。しかも、物語は彼女を中心とするものだけでなく、尼僧の指示のもと、幼少の彼女を連れ去る手助けをした治安部隊の軍曹を中心とするもの、ブラジルの牢屋から脱獄し、インディオのある部族を率いて近隣の別部族の集落を略奪したり、ゴムの密売に手を染めたりしている日本人フシーアを中心とするもの、上述のアンセルモやラ・チュンガの物語、さらにはそれらの人物にかかわる多くの人たちのエピソードが入り混じっており、まるでまだら模様のような様相を呈している。

 ある物語の主要人物が、別の物語では別の名前で登場していたり、ある人物の現在と回想がなんの前触れもなく混在していたりする本書は、物語が進むにつれてそれぞれの相関関係が少しずつあきらかにされていく構成となっており、そのあたりの構成の絶妙さには舌を巻く思いがあるのだが、ここで問題となってくるのは、なぜ著者が時系列をあえて無視するような形で本書を著するに至ったのか、という点だ。もちろん、ある決定的な事件を物語の後ろのほうにもってくることで、いわば物語の謎を生み出して読者の興味をひきつけるため、というのもある。だが、それ以上に本書が重要視しているのは、時間の経過を切り離し、結果だけを提示することによって、たんなる事実、過去に起こった事柄があたかも伝説や神秘、奇跡と呼ばれるようになることであり、本書がそれを実践しようとしていることである。

 たとえば、本書にはガルーシアという名の神父が登場する。彼は「緑の家」の存在を不道徳なものとして常に敵視している者であるが、そんな彼はしばしば町の住人から「火刑人」と呼ばれ、また初代「緑の家」における焼き討ちについて、若者から話をせがまれたりする。その真実については、物語の後半であきらかになっていくのだが、時系列を断片化し、その結果だけ――ガルーシア神父については「火刑人」と呼ばれるという結果だけをまず提示することで、それがひとつの伝説として作用する。そしてその作用は、物語のなかにいる人物だけでなく、本書の物語を外から眺めている私たち読者にも影響をおよぼす。そうした効果を狙った仕掛けは、じつは本書のいたるところに存在するし、またそれこそが本書最大の読みどころでもあるのだ。

 ボニファシアの物語が象徴しているように、本書のなかにはふたつの世界が存在する。ひとつはキリスト教圏ではぐくまれた、文明化された社会、もうひとつはジャングルのなかにある原始的な社会であるが、本書の物語は、文明化された世界の人間が未開の土地へ、あるいは未開の土地の住民が文明化された社会へと移動することで展開していく。いっけんすると原初世界への渇望と近代化社会への批判というテーマと結びつきがちな要素をもつ本書であるが、どちらの世界が良いか悪いかといった視点は、本書のなかには存在しない。このふたつの世界は、どちらかが独立して存在しているのではなく、ひとつの大きなくくりのなかに共存しているのだ。だからこそ、密林の中に修道院が存在したり、砂漠のなかに歓楽街が出現したり、一攫千金を狙ってあえて未開のジャングルにアジトを構えたりするような不思議な光景が、あたり前のように現出されていく。こうしたワンダーな感覚こそが、物語の真骨頂であることは間違いない。

 ある社会に、べつの社会のものが混入することで、それはその社会のなかでは一種の異物、わけのわからないものとして作用する。だが、時の経過はやがてその異物を受け入れ――あるいは排除してしまうのかもしれないが――その社会におけるあたり前となる。それは、さまざまな人間によって成り立っている社会の柔軟さとも言えるが、その時間の経過を知らないものにとっては、ひとつのワンダーにもなる。砂漠の町のなかに突如として登場した「緑の家」、それは、まるで砂漠のなかにジャングルが出現するかのような、そんな不思議と神秘の象徴でもあるのだ。(2011.02.02)

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