【筑摩書房】
『地図と領土』

ミシェル・ウエルベック著/野崎歓訳 

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 芸術というのは他ならぬ人間が創造する「美しいもの」、というのが私の考えであるが、たとえば自然の造形に美しさを感じることはあっても、人間の手によってつくられた人工物が、人間にとってほんとうに「美しいもの」と感じられるのかどうか、という素朴な疑問が頭をよぎることがある。そしてこの疑問の背景には、これまでの人類の文化と技術の発展が自然を征服し、自分勝手につくり変えていくことを前提として成し遂げられたものだという考えがある。

 人間という生物は、間違いなく自然物ではあるのだろう。つまり生き物であり、動物である。だがその自然物であるはずの人間が、その手で何かを生み出すとき、到底自然の美しさを超えることはできないと考えるのは、それほど突飛なものではないはずだ。だが、それでもある種の人々は、「芸術」という名のもとに、実用とは程遠い「アート」なるものを創造しつづけていく。それらのものは、たとえなかったとしても、人が生きていくのに何の支障もないはずのものだ。だが、それでもなお、まるで世界を再構築するかのように芸術をつくりつづけるその精神は、まぎれもなく人間が人間でありつづけるための行為であると言うことができる。

 今回紹介する本書『地図と領土』には、ひとりのアーティストが登場する。ミシュラン地図の写真という意表をつく作品シリーズで一世を風靡し、しかし後には絵画に転向、さまざまな職業に従事する人たちの肖像画を描いた「シンプルな職業」シリーズで、芸術家としては稀有の成功を収めたジェド・マルタンは、しかし本書の冒頭で、ある作品をどうしても仕上げることができず、描きかけの絵をみずから破壊してしまうところから物語がはじまる。ようするに彼は、アーティストとして行き詰ってしまったということになるのだが、本書を評するうえで重要な視点があるとすれば、それはジェドが自身の作品の対象としてきたものが何であり、そこから彼がいったい何を表現しようとしていたか、という点だと言える。

「――絵と絵のあいだに何か人工的、象徴的な空間を構築し、そこに集団にとって意味をもつような状況を描き出そうというのが僕の試みなのです――(中略)――いずれにせよわたしがやっていることは、完全に社会的なものの中に位置づけられると思っています」

 大きく三部に分かれている本書の第一部では、ジェドの芸術家としてのそれまでの歩みが書かれており、彼がもともとは工業製品、つまり人工物に興味をもち、それが彼の生み出す作品の核となっている事実が見えてくる。じっさい、彼の作品の題材となったミシュラン地図にしろ、「シンプルな職業」シリーズにしろ、その中心にあるのは人間であり、そしてその人間が生み出してきたものである。そしてここでジェドを捉えている「人間」とは、良くも悪くも「人類の歩み」を象徴するものだと言える。科学を発展させ、生活を豊かなものにするためにさまざまな人工物を発明し、さらに経済原理で社会を回していくようになった人間たち――それが彼にとっての「人間」の姿であることは、彼の父親がその経済原理の成功者であり、そんな父親のもとで育ったという過去とけっして無関係ではない。

 父親を見ていて理解できたのは、人間の存在は<仕事>を中心に組織されるものであり、仕事の規模はさまざまであるにせよ、それこそが人生の最重要部分を占めるということだった。

 だが、こうした人間像は、他ならぬジェド自身の芸術家としての歩みとは相反するものである。だからこそ、同じく芸術家であるふたりの人物を肖像画の題材にしたときに、その製作が行き詰って放棄せざるを得なかったのは、物語のなかでもとくに象徴的なものだ。

 つづく第二部は、そうした挫折から立ち直るきっかけとしてある人物との交流の様子が書かれるのだが、それが他ならぬ本書の作者であるミシェル・ウエルベックだという点も興味深い。もちろん、作品内のミシェルはあくまでフィクションとしての存在でしかないのだが、自身を世界的に有名な作家のひとりとして登場させ、結果的にジェドを芸術家として大成させるきっかけとなったミシェルは、それまで「人工物」という枠から抜け出せずにいたジェドの、芸術家としての器を大きく広げる役に立ったと言うことができる。じっさい、その後に開かれたジェドの個展は大好評を博し、彼の絵は信じられないような値段で売買されるようになった。アーティストとして、これほどの成功はない、というくらいの道のりである。

 本書を読んでいると、いかにもジェドが何の苦悩もなく、とんとん拍子に大成していくよう感じがするのだが、じつのところそのあたりのリアリティは物語としてさほど重要なものではない。大事なのは、あくまでジェドの芸術家としての創作意欲がどこから生まれてくるのかということであり、またその創作を周囲の人々がどのように解釈するかという点である。このふたつの視点に注目してみると、前者の視点、ジェドの芸術の核となる部分というのは、じつは本書のなかではっきりと書かれることはない。それは、ジェド自身にもよくわかっていない、というよりうまく言語化できない部分であり、だからこそその欲求が写真なり絵画なりの芸術作品の創作へと掻き立てていくことになるのだが、そのいっぽうで後者の視点は多岐に渡り、まるで実在の芸術家の批評集を思わせるほどである。

 こうして見えてくるのは、本書がまぎれもなくジェドの物語であり、彼の生い立ちや家族のことなどで構成されているにもかかわらず、じっさいの彼を評価するのはあくまで周囲にいる人たちであり、しかもその評価がジェドという人物の本質を突いていない、というドーナツ化現象である。このズレは、他ならぬジェドがその作品を通じて一貫して描こうとしていた人工物、そしてそれを生み出す「人間」そのものと、そんな人間たちが生きている社会の一般常識ともいうべきモノとのズレでもある。とくに、ジェドの作品がその収集家によって法外な値段で取引されるという現象は、そのズレの最たるものであり、彼の作品の売り出しに貢献したフランツ自身も語っているように、芸術を評価する基準に常につきまとっているズレでもある。

 いずれにせよ、いまの時代は何もかもが市場での成功によって正当化され、認められて、それがあらゆる理論にとって代わるというところまで来ている。それよりもっと遠くを見ることはだれにもできない。まったくできないんだ。

 私はこの書評のなかで、芸術作品を生み出すことは人間が人間でありつづけるための行為だと書いた。そのことに間違いはないのだが、つづく第三部で起こった、ある衝撃的な事件もふくめて、じつは「人間が人間でありつづけるための行為」とは、何も芸術活動だけにかぎったものではないことを、読者は思い知らされることになる。そう、人間らしさとは、かならずしも美しいもの、崇高なものだけを指すのではないのだ。本書はたしかにジェドというアーティストの物語ではあるのだが、彼を主体として構築された本書全体をとらえたときに、人類全体のことを表現しようとした作品であることが見えてくる。

 自然は美しいものだが、同時に苛酷なものでもある。そしてそんな自然に背を向け、金で金を買うようなマネーゲームに興じている人間の社会というのは、じつのところこのうえなく凡庸なものであるのかもしれない。その凡庸さに対抗する唯一の方法として、ジェドは芸術という道を歩むことになった。はたして彼がその人生において表現しつづけてきた「人間」について、最終的にどのような答えを導き出すことになったのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2014.09.07)

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