【徳間書店】
『カードミステリー』

ヨースタイン・ゴルデル著/山内清子訳 



 たとえば、宇宙はビックバンと呼ばれる爆発で誕生し、それ以来今もなお膨張を続けているというのが現在の宇宙論だというのだが、それは言ってみれば、とてつもなく巨大な風船があって、そのなかに私たちがいるということである。風船のなかにいる私たちには、その風船の形はわからないし、その外に何があるのかも見通すことはできない。だが、もしビックバンによって世界が誕生し、膨張しているというのであれば、どこかに宇宙の境界線というものがあるということになるし、境界線があるのなら、内と外という領域も存在することになる。この宇宙はどんな形をしているのか。その外には何があるのか。もしかしたら、宇宙の外にはまったく別の宇宙がさらに広がっていて、自分たちの世界は誰かに観察されているのかもしれない――まるで、入れ子構造のように何重にも連なるものとして世界をとらえる視点、世界そのものを外から見るという発想は、他ならぬ人間だからこそ与えられた想像力の産物でもある。

 だが同時に、私たちは究極的に主観の生き物でもある。私たちが世界のなかに存在する、という考えは、「世界」という入れ物がたしかに存在する、ということを前提としている。しかし、世界のなかにいる私たちが他ならぬその「世界」をとらえることができないのであれば、なぜ世界がたしかに存在すると信じることができるのか。肉体という殻のなかに閉じこめられ、五官を介してしか世界に触れることのできない、きわめて不自由な私たちの意識は、じつは五官が伝えるものをただうのみにしているだけであって、世界などというものは存在していないのかもしれないのだ。自分の主観がほんとうに客観と判断できるのか、ただの想像の産物にすぎないのか、あるいは実存は意識に先行するものなのか――これもまた、人間だからこそぶちあたる哲学的命題だと言える。

 自分は誰か、どこから来たのかという疑問を持たずに、地球上を動きまわっている人間のほうが、むしろ謎に思えてきた。この地球で生きているとはどういうことなのか、という問題から目をそらしたり、生きていることを当たり前のこととしてしまって、いいのだろうか。

 本書『カードミステリー』には、大きくふたつの物語が並行して語られている。ひとつは、ノルウェー人のハンス-トマスが語る、六年前に経験したアテネ旅行のこと。当時十二歳の少年だった語り手の父親は、ずっと前に家を出ていった妻のアニタが、ギリシャのファッション雑誌のなかにモデルとして載っているのを見つけ、彼女を連れ戻すために、息子とともにアテネ旅行に出ることにしたのだ。彼女がなぜずっと家族のもとに戻ってこないのか、家族のあいだにどのようなことがあったのか、あくまで語り手の視点で書かれている本書のなかにははっきりと書かれていない。父親の言葉を借りるなら、アニタは自分自身を見つけるために家を出て、その結果としてファッション界で迷子になってしまったのだという。

 そしてもうひとつの物語は、語り手が旅の途中で立ち寄った、ある村のパン屋で手に入れることになった小さな本のなかに書かれている物語である。虫眼鏡でもなければ読むことのできないその豆本を手に入れる前に、語り手は妙な小人からルーペを受け取っていた。まるで、語り手がその本を手に入れることが事前にわかっていたかのように。誰にも豆本の秘密を明かさないように、という忠告にしたがって、父親の目を盗んでこっそり読み進めていった語り手は、そのなかでパン屋の老人の過去と、その老人がさらに若い頃にパン屋をしていたハンスという老人から聞いた、ある不思議な島での出来事に触れることになる。

 ミステリーという言葉がタイトルのなかに含まれているだけあって、本書のなかにはじつにさまざまな謎と伏線が溢れている。語り手の母親はほんとうにギリシャで見つけることができるのか、再会できたとして、ふたたび家族として戻ってきてくれるのか。ハンス-トマスが旅の途中で出会い、その後も何度か姿を見かけることになる奇妙な小人は何者なのか、そして豆本のなかには、どんな秘密が隠されているのか――たんなる物語、虚構の世界の出来事が書かれているとばかり思っていたその豆本は、しかし読み進めていくにつれて、自分が今いるこの現実世界とたしかなつながりがあるという確信を得るにいたるのだが、たとえば本格ミステリーのように、ふたつの世界との関連性がある論理性をもって、劇的につながっていく、といった展開を想像していると、あるいは肩透かしを食らうことになるかもしれない。いや、関連性という意味では間違ってはいないのだが、本書が指し示す最大の読みどころは、じつのところ私たちが生きているこの世界のことであり、私という個人が、その世界のなかにいるということの不思議さを、読者に再認識させるという一点にこそある。

 豆本のなかに書かれている世界は、一種のファンタジーである。船が遭難し、無人島に漂着したある船乗りが、もっていたトランプのカード一枚一枚に想像で人格をあたえていったところ、その想像が現実世界のなかで形をもち、小人となって飛び出してきた、という展開は、現実的に考えればありえない話なのだが、この豆本の話が多分に寓意的なものだと考えたとき、そこには世界と自分との関係性のとらえなおし、言ってみれば世界の再構築を実現させた、ということになる。

 前述したように、人間は五官を通じてしか世界とかかわることができない。それはきわめて主観的なもののとらえかたでもあるのだが、それでもなお、私たちがこの現実世界でやっていけるのは、他者の存在があるからに他ならない。自分の見たもの、聞いたものを他人と共有し、言葉という共通の道具をもちいることで、私たちは世界を秩序づけていく。だが、もしこの世に自分ひとりしか存在しなかったとしたら、究極的には自身の主観こそが世界そのものということになってしまう。文字どおり、妄想が現実を駆逐していくのだ。そして、その役割をはたすのが、ジョーカーという存在である。

 ハンス-トマスが手にした豆本のなかで、ただひとりジョーカーだけが、自分の存在に疑問をもった。それは、創造主たる船乗りの支配下から逃れ、自分の言動によって逆に世界そのものに影響をおよぼすことへとつながっていく。そして、その影響は豆本の世界を超えて、語り手のいる世界にまでおよんでいく。ファンタジーであり、童話でしかない、と言われれば、たしかにそのとおりだ。だが、たとえば私たち人間や、私たちが生きる世界が「神」と呼ばれるような何かによって創造されたものであるとしたら、すでに私たちは、その想像力で世界を何度も再構築していくようなことを行なっているのである。

 その担い手となったのは、誰なのか。豆本におけるジョーカーの役割をはたすのは、哲学者たちである。本書においては、ハンス-トマスの父親が哲学者としての役割をはたしているが、これまでの哲学の歴史を振り返ってみても、ソクラテスが自身の無知に気づき、ニーチェによって「神」という、世界を外からとらえる絶対者の束縛から逃れ、まぎれもない自己という新たな視点が誕生した。フロイトがいなければ、無意識という概念は存在しなかったし、ソシュールは、言語に囚われているという認識を植えつけることになった。世界をより良い形にしていくために、社会主義が生まれ、全体主義が生まれ、修正資本主義が台頭したし、不動の平らな大地だった地球は丸くなり、さらに太陽の周りを回りだし、ニュートリノなどというミクロの世界の物質が発見された。私たちの生きる世界は、その歴史のなかで何度も再構築されているのだ。そして、これからも世界は再構築されていくのだろう。本書におけるふたつの物語のつながりは、その点にこそある。

 この世に生まれてきた私たちは、いずれ死によってこの世界から解き放たれることになる。いずれ死ぬ運命にあるのだとしたら、はたして私という個にはどんな存在意義があるのというか。人はどこから来て、そしてどこへ行くのか――人間がもちえる最大のミステリーである私たち自身のこと、そして私たちがそのなかにいる世界の不思議について、私たちは今一度目を向ける必要がある、ということを本書は何より雄弁に物語っている。(2008.12.14)

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