【ポプラ社】
『カレンダーボーイ』

小路幸也著 



 人と人とが完全に解り合うことは不可能であるし、自分の人生は最終的に自分だけのものでしかない、ということも承知してはいるが、それでも、自分自身がたしかに生きたはずの過去という時間を、自分以外の誰かと共有している、過去の自分のことを他の誰かが知っている、というのは、もしかするとこのうえなく貴重なことなのかもしれない、とふと思うことがある。とくに、これから生きていく未来の時間よりも、これまで過ごしてきた過去の時間のほうが長くなるような年齢にさしかかってくると、なおのことそんなふうに思わずにはいられなくなる。それは、その人のなかで未来よりも過去のほうがより大切なものになるという、価値観の変化が生じるからであり、その大切な過去を共有できる者は、おのずと限られてくるからでもある。

「人間の社会的な個性は小中学校でほぼ形成される。そこから先はどんなに歳を取ろうとそれほど変わるもんじゃない。積み重なるのは経験だけ。――(中略)――事件は積み重ならない。ただの傷にしかならない。その中身は変わらないのさ」

 人間どうしは解かり合えないかもしれないが、少なくとも生きる時間を共有することはできる。人と人との関係性というのは、言い換えれば共に過ごす時間の積み重ねであり、そこから共通の思い出も生まれてくる。だからこそ、たとえば生涯をともにする誰かと結婚する、家族をもつという行為は尊いものとなる。今回紹介する本書『カレンダーボーイ』は、タイムトラベルやタイムスリップといった時間跳躍をテーマとした作品であるが、本書が他の時間跳躍ものと比べて一線を画している点があるとすれば、それは時間跳躍というきわめて特異な体験を共有できる友人が最初から存在する、という一点に尽きる。

 時間跳躍もの、と書いたが、最初からそれが過去への時間跳躍であると当人たちはわかっていたわけではない。東京の某私立大学で国文学教授をしている三都充と、同じ大学の事務局長を勤める安斎武史は、かつて同じ札幌の小学校に通った同級生であり、いったんは別の道を進んだものの、東京の私立大学という職場で再会することになったという意味で、もうすぐ五十になるという年齢になってなお、いろいろと気心の知れた仲であるが、最初にふたりが時間跳躍を体験したとき、ふたりはそれがリアルな夢であると判断した。一九六八年、昭和四十三年。自分たちが小学五年生だった子どもの頃に、今の記憶を保ったまま意識だけが戻ってしまい、ふたりともそれに困惑しつつも一日を子どもとして過ごし、ふたたび目覚めると、元の時代に戻っていた、という経験――だが、その次の日に安斎が職場でその夢の話を語ると、三都もまた同じ夢をみたという。

 こうして物語は、ふたりの登場人物が同じ経験を共有しているという認識があって、はじめて動き出すことになる。時間跳躍のパターンは、それこそ物語によって千差万別あるが、意識だけが過去に跳んでしまうということのほかに、一日を過ごして眠りにつくたびに、過去と現在を強制的に行き来してしまう、という特徴が本書にはある。それは、過去にふたりがとった行動が、彼らの本来の時間枠である現在にどのような影響をおよぼしているのかを確認することができる、ということであり、それゆえに本書の物語はよりスリリングな展開を見せることになる。

 なにせ、過去にいる時点で歴史を大きく歪めることを行なえば、下手をすると現在のふたりの立場が大きく変化してしまう可能性があるのだ。じっさい、ふたりが行き来する時代がつながっているものかどうかを確かめるために、過去に起こったある事件を未然に防いでみたところ、戻ってきた現在においてもその事件は起こらなかったことになってはいたが、その代わりまったく違う形で違う事件が起こるという「歪み」が生じてしまっていた。過去におけるどんな言動が、現在にどのような影響をおよぼすのか予想がつかない、という事実――だが、そうした奇妙な現象がほかならぬ三都と安斎のふたりの身に起きてしまうということに、なんらかの意味を見出そうという彼らの意思は共通のものだ。なぜ、自分たちは過去へと跳んでしまうのか。何か、自分たちでなければできないことがあるからこそ、過去と現在を行き来するようになったのではないか。

「里美ちゃんが死ぬ原因になった事件の、あのお金をふんだくる」
 腰を浮かしたまま三都が俺を睨んだ。
「三億円をか」
 そうだ。

 一九六八年、昭和四十三年の十二月十日といえば、日本じゅうを震撼させたあの「三億円事件」が起こった日である。そしてふたりが時間跳躍した先も、同じ一九六八年。物語は必然的に、「三億円事件」が起こった当日に向けてカウントダウンしていくような展開を迎える。そこには当然のことながら、ふたりが本当にあの三億円を手に入れることができるのか、そしてあの事件の真相はどういうものなのか、といった興味深い謎があり、それが読者を牽引する大きな要素であることも間違いはないが、それはけっしてこの物語のメインというわけではない。むしろ重要なのは、同じ時間跳躍という体験を共有し、同じ目的をもって確信的に過去を変格していこうとする三都と安斎が、その目的という点ではまったく異なる方向を向いている、という点である。

 三都は同じクラスメイトで、両親の無理心中に巻き込まれて死んでしまった古内里美を、なんとかその悲劇から回避させたいという強い思いをもっていた。そこには彼にしかわからない特殊な事情があったのだが、そのことが大きな後悔となって三都の意思を過去に縛りつけていた。つまり、物語のなかで三都のベクトルは、常に過去を向いていたということになる。いっぽうの安斎のベクトルは、常に現在を向いている。理事長が大学の金を使い込むという不祥事。事務局長としてそのことを看破できなかった安斎は、「三億円事件」のお金があればその不祥事をなかったことができると考えている。そこには、大学は学生のためにあるもの、という自負があったのもたしかだが、それ以上に自分の今の家族、今という時間の日常を守りたい、という気持ちのほうが強い。そして、そんなふうにふたりの立場を考えると、本書のラストでふたりがそれぞれ迎えることになる結末には、それなりに理由があったのだと納得することができる。

 時間跳躍という非現実的な出来事をあつかっていながら、過去のふたりが目的をはたすために彼ら以外の人たち――当然、時間跳躍とは無関係に生きている人たち――が妙に物分りがよく、何かと協力的な態度をとってくれるという展開に、あるいはご都合主義的なものを感じとる方もいらっしゃるかもしれないが、本書における時間跳躍という要素の意味するところは、時間跳躍という現象によって、それに巻き込まれた人たちが、時間の共有という点で他の人たちとは決定的に交わることができなくなる、ということである。だからこそ、本書のラストが意味するところ、それが読者にもたらす感情を、ぜひとも噛みしめてみてほしいとことのほか思ってしまうのである。(2008.09.26)

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