【角川春樹事務所】
『ゼウスの檻』

上田早夕里著 



 小さい頃、21世紀には人類があたりまえのように宇宙旅行できるような時代になるものだと思っていたのだが、いざ21世紀になってみれば、宇宙開拓はおろか、20世紀からつづいているさまざまな問題すら解決できないまま、ずるずると引きずるようにして時間ばかりが無駄に流れていく、という気がしてならないのは、はたして私だけだろうか。

 もちろん、人類の科学技術が輝かしい未来を約束していると信じるほど無知ではない。また、インターネットの隆盛といった部分では、確実に既存の人間社会の構造は変化しつつあると言える。正直な話、携帯電話がある種の「携帯端末」として、ここまで普及していくことなど、以前であれば考えられないようなことでもある。だが、にもかかわらず人類が今もなお地球という惑星にとどまりつづけている、というのは、見方を変えれば、すぐそばに無限の空間が広がっているのを見ようとせず、狭くて小さな世界に必死にしがみついて汲々としているようで、どこかもどかしさを覚えてしまう。

 広大無辺の宇宙に対する飽くなきロマン、というのは、私のなかにたしかにあるひとつの憧れだ。だが同時に、それはあくまで自分の手に届かないものであるからこその幻想なのかもしれない。以前に読んだ平谷美樹の『エリ・エリ』のなかに、木星の近くにある宇宙ステーションに勤務していた人が、精神を病んで地球に戻らざるをえなくなったというエピソードがあるのだが、住み慣れた場所を離れ、未知の世界へと飛び出していく、それも宇宙空間という、人類にとってこのうえなく厳しい環境へと出ていくというのは、それだけ人間の精神に大きな負担をあたえるものだということでもある。

 地球上の生物が、苛酷な環境の変化に適応していくために、ときに自身の姿かたちを大きく変えていったように、人間もまた、宇宙空間に適応するためには、それまでの人間という枠をとりはらい、身体的にも精神的にもより柔軟に変化していくことを求められるのかもしれない――本書『ゼウスの檻』を読んだときに、まず思ったのはそうした事柄である。

 地球人はどこまで進んでも、地球流のやり方を残したままでいるからだ。地球で発生したこの身体を持ってゆく限り、我々はいつまでも、宇宙に適応するのではなく、宇宙環境のほうを地球型に変化させて居住せざるを得ない。――(中略)――この肉体が縛るんだよ。檻のように、人間の精神の発達をね

 本書のなかの世界では、人類の宇宙進出への意欲がめざましく、地球の軌道上や月面上に居住地区をもつ本格的な宇宙都市を建設し、火星やアステロイドベルトの開拓を経て、その最先端は木星に届くまでになっていた。人類が地球の外で生活することがごくあたり前となっている未来――そんななかで、物語の大きなキーとなる要素として「ラウンド」の存在がある。

 「ラウンド」――ラウンドトリップ・ジェンダー。人類が宇宙進出のさいに、人体におよぼす影響を調査するための被検体として生み出された、まったく新しい性をもつ人々の総称であり、生まれながらに男と女両方の機能を体に備えている両性種であるが、じつのところ彼らの存在が宇宙開発のため、というのはなかば口実にすぎない部分がある。より現実的な側面としては、21世紀ごろから現われ始めたセクシャル・マイノリティの問題、そしてそこからあらためて疑問視されるようになった性差の意識の変質が、結果としてラウンドを生み出す土壌となっている。

 未来の人類の世界を舞台とする本書において、男女の性差は単純に「男」「女」の二分法ではとらえられない、複雑な様相を呈するようになっている。人間の性を「身体の性」「心の性」「性的指向」の三要素にわけ、それらの組み合わせによってさまざまなパターンの性差が認められるようになっていた。生命操作の技術の発達、つまり遺伝子治療や人工臓器などの技術の飛躍的向上によって、人類の性転換が容易になったことも相まって、気軽に自身の性を変えることや、心と体の性不一致をとくに違和感なくとらえることのできるあらたな価値観が育ちつつあった。ラウンドというのは、そんな複雑になった人類の性差の、あくまでひとつの形態にすぎない、つまり、私たち読者があたりまえの認識としてもっている、男女の性差を基本とした「人間」と同じだという基本があり、それこそが本書を表現するにあたって重要な要素となっている。

 どれだけ時代が進んでも、古い価値観からなかなか抜け出せない人たちというのは常にいる。心も、体も、いずれも男か女のふたつにひとつしかない、という超保守派もいれば、そうした性差を超えた存在として、両方の性をひとつの体で共有したいという超進歩派もいる。物語は、そんなラウンドたちが暮らす場所を「特区」として受け入れている木星の宇宙ステーション「ジュピターT」が、過激なテロ組織「生命の器」の標的にされているという情報のもと、火星警察の特殊警備部門所属の城崎ら警備グループが、前任のグループと合流し、「ジュピターT」でテロリストたちを迎え撃つという作戦が遂行されることになるのだが、そこにあるのは、けっきょくのところ同じ「人類」であるにもかかわらず、ごく個人的な価値観の相違によって「ラウンド」「モノラル」と二分化し、それぞれ憎しみや、怖れの感情を相手に覚え、そして血を流さずにはいられない人々の姿であり、それは私たちが性差について「男」「女」と二分化するのとなんら変わりない。だからこそその争いの果てにあるものはこのうえない虚しさだけである。

 私たちは、モノラルの意志と希望によって生み出されましたが、生まれたと同時に保守派モノラルから異端視された。まるで危険な猛獣のようにね。ジュピターTはラウンドにとって、まさに“木星(ゼウス)の檻”なのです

 本書は宇宙ステーションでのテロリストとの戦い、という形をとってはいるが、その背景にはモノラルとラウンドの対立、マジョリティとマイノリティのあいだの問題が隠されている。そして本書においてもうひとつ興味深いのが「グレイ・ゾーン」の存在、つまりふたつの対極があるなかで、そのどちらかに一方的に偏るわけではなく、判断保留をしながら時と状況によって柔軟に対応していくというひとつの考えかたである。そして、本書においてじっさいに血を流しているのが、そうした「グレイ・ゾーン」に属する人たちであるというのがなんとも皮肉なことでもある。じっさい、テロリストたちも警備グループの人たちも、「ラウンド」とか「モノラル」とかいった判断基準について、思想的な思い入れはとくに持ってはいない。そしてラウンドのなかにも、その社会にどうしてもなじめない者や、ある種の奇形とされている者もいる。ひとつの対極する価値観の衝突を書きながら、そのなかにじつにさまざまな価値観、複雑な個人的考えをモザイク模様のように織り込んでいく――それこそが、本書の大きな読みどころである。

 肉体、教育、環境など、私たちを縛るものは数多い。そして広大な宇宙において、何が起こるのかはまさに未知数だ。はたして私たち人類は、どこまで高く、どこまで遠くへ自分たちを導いていけるのだろうか。そして私たちは、どこまで自分自身を自由に解放できるのだろうか。(2008.12.01)

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