【幻冬舎】
『森の中のカフェテラス』

橋本一子著 



 純粋に、ただ純粋にそのタイトルに魅かれて手にとった。そして読みすすめていくうちに、この物語は、大多数の人がおそらく心の中に持っているであろう人間の、そして世界の理想像を凝縮したものではないか、と感じた。
 本書『森の中のカフェテラス』の内容については、おそらくこの場を使って説明するまでもないだろう。本書のタイトルから引き起こされるイメージが、すなわち内容そのものなのだ――静謐な雰囲気のただよう森の奥深くにひっそりと建つ、古ぼけた大きな洋館、その庭に置かれたテーブルには、あたたかいお茶の入ったティーカップが静かに誰かを待っている。森で迷子になった歌姫は、この不思議な一軒家にたどりつくことになるだろう。そして彼女は、その一軒家に住む、穏やかな気配に包まれた青年と出会うことになるだろう。

 非常に美しい、透明感のある世界だ。人を愛するがゆえに起こる醜い争いも、自分の欲望を満たすために起こる多くの不幸も、この無菌室で栽培されたかのような世界にはない。およそ人を疑うということを知らない無垢なキャラクターが、綺麗な世界のなかで、予定調和のストーリーを無邪気に演出しつづける。そう、演出――徹底してリアリティーを排除した物語は、物語というよりもある種の演劇に近い。
「未来と過去を同時に存在させている」「決して完成はしない、でもすでに完成してるかもしれない」「他の誰かであり誰でもなかった」「その意識は異常なほどに覚醒していると同時に、妙に朦朧としてもいる」……。本書のなかにあるこうした矛盾した表現の羅列によって、物語はますますリアリティーを喪失し、ますますその透明度を増していく。それは奇しくも、森の一軒家に住む青年イテアの選んだ道を予感させるものとなっている。

 イテアは人間のこと、あるいは宇宙のことを理解したいと願う。だが、人間や宇宙に関する知識を詰め込む以前に、あるいは人間はそのすべてを知っているのではないか、と考える――理屈ではなく、感覚として。

 最近じゃ、もしかしたらその先に何かあるんじゃないかとも思うようになった。
 その先の何か、なんだかわからないけど、その先の何か、ぼくはそこへ行かなくちゃならないような気がするんだ。わからなくてはならないことになっているような気がするんだ。

 何も知らないがゆえに、すべてを知っているという感覚――その感覚は、私にもなんとなくわかる。だが、おそらく言葉では説明できない。イテアは元音楽家だった。そして著者も音楽家である。音楽家にかぎらず、何かしらの芸術にたずさわる人というのは、理屈では理解できない「その先の何か」に敏感なのかもしれない。だからそれを表現するために音楽家は音楽をつくり、画家は絵を描き、作家は小説を書き、そして森で迷った歌姫マリアは歌を唄いつづけるのだろう。そういった世界は、現実を生きることで精一杯の私達にとって、やはりひとつの理想なのである。(1999.01.22)

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