【文藝春秋】
『聖水』

青来有一著 
第124回芥川賞受賞作 



 人は、いずれかならず死を迎える。それは、言葉にするのは簡単だが、まぎれもない現実のものとして、自分の身にも迫ってくるものであると実感することは、私たちが考えるほど容易なことではない。

 人が死ぬということ、自分自身の死とは何なのか。たとえば病気が長引いたり、怪我の治りがかんばしくなかったりするようなとき、私たちは身体の不調という形でそれと実感することができる。それまで思うように動いていたはずの体が、思いどおりに動いてくれない――それは言ってみれば、その体に宿っているはずの意識に対する叛逆であり、その延長上にあるのが「死」であると定義づけしてみると、あるいは死ぬということをよりリアルなものとして捉えることができるのかもしれない。意識とは何なのか、自我がどこから来るものなのか、はっきりとわかっているわけではないが、もし肉体が死んでしまったら、「死」のことを考えている私という自我もまた考えるすべを失い、自分が自分であるという意識も消えうせてしまうことになる。

 私たちは、自分が人間であるということを意識している。それは、あまりにあたり前のことであるがゆえに、ふだん意識することもないのかもしれないが、そういう定義づけをしてこの社会のなかで生きている。私たちの社会が、周囲にあるあらゆる「わけのわからないもの」に対して名前をあたえ、自分たちの秩序に組み込んでいくことで発展していったのだとすれば、人々が「死」という言葉を生み出したのは必然だ。なぜなら、人間にとっての「死」とは、究極の「わけのわからないもの」でもあるからだ。そして「死」が、自我も含めた人間としての存在の消滅を意味するのであるのなら、死後の世界はないし、死んだ人間の気持ちなどというものも存在しない。それはけっきょくのところ、生きている人間の問題であり、生きている人間の都合だということになる。

 ぼくは、人知を超えた存在にまったく自分が無頓着ではないことにも気がついていた。父に末期癌を宣告された夜、ぼくは父に深い同情を寄せ枕に顔を埋めて眼を熱くしながらも、それが自分ではなく父が選ばれてしまったことに、心の奥底でその選択に感謝をささげる自分がいることを感じた。たぶん、ぼくたちは何かを畏れている。

(『聖水』より)

 本書『聖水』は、表題作を含む四つの短編を収めた作品集であるが、これらの作品は、いずれもぬぐいがたい死の雰囲気と深く結びついている。たとえば表題作の『聖水』では、語り手である秀信の父親が末期ガンを患い、余生を浦上の高台にある自身の故郷の家で過ごすことになるという話であるし、『ジェロニモの十字架』の語り手である「僕」もまた、若くして喉のガンを患い、手術によって一命はとりとめたものの、声帯をすっかり切除して声を失ってしまっている。

 ふだん、その存在を知りながらも、なかなか現実のものとして実感することのない死の影――本書の短編で中心となる人物は、そうした人の死をまぎれもないリアルなものとして、一時は受け入れることを強いられた人たちだ。そして、そこにあるのは、けっして生の対極としての死、生きているか死んでいるか、きっちり境界線を引くことができるような、そんな潔い死ではない。それは言ってみれば、自分が少しずつ自分でなくなってしまうことへの恐怖、畏怖ともいうべき怖れと結びつくような死である。それゆえに、その死の影をまのあたりにした語り手たちは、いずれも「恐慌状態に陥り、醜態のかぎりを曝」す。自分が末期ガンでないことに心から安堵し、また自分が死ぬくらいなら親や恋人を身代わりにしてもいい、という邪道な祈りをささげてまで、死から逃れたいと願うのだ。

 そうした死の姿を、もっとも直接的に表現しようと試みた作品として、『泥海の兄弟』がある。この短編の舞台となっているのは長崎の干潟で、中学のときにこの地に転校してきた語り手がそのときに出会った、ユタカという名のヤクザの息子との思い出を語っていくこの短編では、生物学者だった語り手の父が、犬の死骸を干潟に埋め、その腐乱していく様子を観察するというエピソードにも表われているように、干潟の泥海がしばしば「死」の象徴として描かれている。「泥の海を這いずり回って、一生を終える」ことを否定して、地元暴力団に入ったものの、最期にはその泥の中で死ぬことになったユタカの父とその弟――その生涯は、ともすると死の恐怖から逃れようともがきながらも、けっきょくはそこから逃れることのできなかった人間の矮小さを、なんの装飾もなく、まさにありのままに描いていこうという著者の意思を感じとることができる。

 これらの短編集には、これといった劇的な物語の展開が用意されているわけではない。むしろ、物語という意味ではこのうえなく地味な作品ばかりであると言えるのだが、死の雰囲気と結びつき、死の影とともに語られていく本書は、しかしその中心となっている「死」そのものの姿がはっきりとした輪郭をともなってはおらず、どこまでいっても掴みどころのないものとして、私たち読者を翻弄していく。『泥海の兄弟』のように、人の死が腐乱という形でその姿の一端を垣間見せるようなことは稀であり、かろうじて見えるのは、そうした泥海のごとき「死」のとりとめのない姿であり、「死」の周囲をとりまいている、「死」を恐怖し、あるいは「死」に魅入られた人々の姿だ。そしてそこには、絶対の存在であるはずの「死」に対して、しかし自身のリアルとしてとらえることのできない人たちと、「死」をまぎれもないリアルとしてとらえてしまった人たちという決定的な違いが生じている。

 前述したように、本書にはまぎれもない「死」と直面し、そこから逃れようと醜態をさらす人たちの姿がある。まぎれもない「死」を自身のリアルとして向き合わなければならない、ということ――人はいつか、かならず死ぬという道理は、いくら理屈ではわかっていても、それだけではどうすることのできない理不尽さ、不条理さに満ち満ちたものでもある。そしてだからこそ、本書のなかに見出すことができる人の死は、どこまでいっても人の思いどおりにはならず、人としての本質がそこからほの見えてくることになる。だが、それでもなお、「死」というものを理屈づけ、人の生涯において意味のあるものにしようともがきつづけていく。本書のもうひとつの特長として、神がかり的な存在と化した人物が出てくるが、それらの人物はたしかにどこかの宗教団体の教祖のような雰囲気を醸し出していながら、同時にこの上なく俗物的であり、どこか狂気めいたものを持ってもいる。あるいは、そうした狂気なしには、まぎれもない「死」と対峙することは不可能ということなのかもしれないが、物語はそこでとどまるどころか、そこからさらに長崎に落とされた原爆の恐怖、さらにはかつて信仰されていた隠れキリシタンの弾圧への恐怖にまで結びついていくことになる。

「佐我里さんもそう考えています。別の信仰だと……。そうであってもかまいはしない。大切なのはなにを信じるかではなく、信じることができるかどうかということです。そうでなければ、人は最後まで迷い続けるしかないのではないですか?」

(『聖水』より)

 表題作『聖水』では、末期ガンに侵された語り手の父は、従兄弟にあたる佐我里という男を自身の経営している地方ストアの役員に迎えるが、その佐我里さんは、胎内にいたときに原爆の光を見たと語るような人物で、ミネラルウォーターに「聖水」と名前をつけて高額で売りさばいている。語り手の父や母はその水が奇跡の水だと信じて飲み続けているが、両親だけでなく、その地方では意外なほどの売れ行きを示している。だが、その水が本当に人々の病を癒すような力があるとは、語り手にはどうしても思えない。どこか胡散臭いのに、どこか神がかっている佐我里という人物は何者なのか。そして「聖水」は本当に奇跡の水なのか。あるいは人々の深い信仰、何かを信じたいという思いが、ただの水を奇跡の水に変えるのか。まぎれもない「死」の淵をさまようことになった人たちが、そこから逃れるためにどのような祈りの言葉をとなえ、その言葉がこの現実世界にどのような力を得ることになるのか――本書のことを説明するのはなかなか難しいのだが、そこにはそれまで言葉にできなかったもの、人の死と、そこから生じてくる得体の知れない、しかしどこか神聖な感じさえする力の源が、たしかに感じられるのだ。(2009.01.23)

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