【文藝春秋】
『タイムスリップ・コンビナート』

笙野頼子著 



 笙野頼子というと、『居場所もなかった』といった初期の作品もちょっと変わっていたが、あの頃はまだ、物語が現実の世界のなかで機能していたような気がする。あらゆる意味で「壊れてきた」のは、『二百回忌』あたりからだ。
 そして本書『タイムスリップ・コンビナート』であるが、見事なまでに「壊れた」小説になってしまっている。本書がどのような物語であるのか、とか、けっきょくどうなったのか、とかいう疑問を持つことそのものを拒否している点で言えば、あるいは高橋源一郎の『ゴーストバスターズ』と似ていると言えるのかもしれないが、『ゴーストバスターズ』が、それでも一応物語という体裁をととのえ、それなりのキャラクター設定をおこなっていたのに対して、本書はそもそも物語の形すらとっていないし、登場人物になにかしらの設定を与えることさえ拒否している。

 著者をモデルにしたと思われるさえない小説家が、誰だかよくわからない人からの電話を受けて、電車に乗って海芝浦だか沖縄会館だかへ向かう。本書の概要を説明しろ、と言われれば、おそらくこの一文で事足りる。物語への意味付けも、登場人物への意味付けも拒否した本書にもし価値があるとすれば、それはただひとつ、著者の現実離れした思考の流れを楽しめること、であろう。

 気が付くとまるで書き割りのようなわざとらしい、ぴかぴか光る一枚の布のような海を私は見ていた。その海のあちこちに島もないのに、大量の芝が生えているのだった。(中略)その芝を一本だけぴっと引っ張る。と、全ての芝が一本の糸のように繋がっていて、どんどんその手元に手繰り寄せられてしまう。芝と一緒に海も縫い目を引っ張られた布のようにめくれ上がる。(中略)その下にあらためて、漸く、浦、と呼ぶに相応しい現実感のある海が現われたのだった。

 海芝浦、という駅の名前を聞いて生まれたのが、上述の想像だ。本書はこうしたストーリーの流れ、そして現実の流れからの逸脱によってのみ成り立っている作品なのである。読んでいくと、まるで宇宙人の目からこの世界を見ているかのような錯覚に陥ってしまう。そして、電車に乗ってどこまで行ったのか、いや、そもそもどこまでが現実でどこまでが昔の回想でどこまでがたんなる想像なのかが、ごちゃごちゃに入り混じってわけがわからなくなっていく。そしておそらく、それこそ著者の思うつぼなのだ。

 エンターテインメントに溺れることもなく、またキャラクターの魅力に頼ることもなく、ただ純粋に、書き手の感性のみで物語を引っ張り、現実世界への認識を壊していく本書は、ある意味とてもいさぎよい作品であると言える。だが逆に、その現実離れした感性が平凡なものとなったそのとき、彼女の作家生命も尽きることになる。本書が芥川賞をとったのは1994年のことだから、もうかれこれ五年が過ぎているわけである。その間、著者がどんな作品を書いていたのか、近いうちに確かめる必要があるな、と本書を読み終えて思った。(1999.01.28)

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