【白水社】
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

J.D.サリンジャー著/村上春樹訳 



 こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、本書『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が書かれた背景がどんなだったかとか、作者がどんな人物で、ほかにどんな傾向の小説を書いていたのかとか、本書が書かれたことで世の中にどんな影響がおよんだのかとか、その手のお固い評論文的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。でもはっきり言ってね、その手の話をする気にはなれないんだよ。そんなこと話したところであくびが出るばっかりだし、それにだいたい僕が本書を読もうと思った実情みたいなのをちらっとでも持ち出したら、本書を真剣に研究している人たちはきっと二度ずつ脳溢血を起こしちゃうと思う。そういうことに関しては、本書はあまりにも有名すぎるんだ。真面目な話。今から君に話そうとしているのはただ、僕が本書を読んだときに思ったり感じたりした諸々のことについてだよ。それは僕がよく利用している図書館が整理期間と称した長い休館となって、いよいよ手持ちの本がなくなってきた頃のことなんだけど、実を言えば本書を読もうと思ったきっかけは、何も訳者が村上春樹だからとか、そういうことじゃないんだ。村上春樹ってのは、海外でも有名な日本の作家なんだけど、それでもね。

 僕が『フリーダム・ライターズ』という本を読んだときのことから話を始めよう。『フリーダム・ライターズ』はカリフォルニア州のロングビーチにある高校に赴任してきた新米国語教師と、その生徒たちの心の交流を描いたノンフィクションで、映画にもなったから知ってる人もいるんじゃないかな。その新米教師は授業のなかでいろいろな小説をとりあげたりして、そこから生徒たちが生きる現代の問題へと結びつけるのが上手なんだけど、そのとりあげられた作品のひとつが本書だった。そこでは『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルで、その国語教師は本書をとりあげて「ここにはあなたたちのことが書かれています」と言ったんだ。彼女が受け持っていたクラスは問題児ばかりでね、世の中は嘘と欺瞞ばかりで価値のあるものなんか何もない、といった考えに凝り固まった、なんともすさんだ心の持ち主ばかりだったんだけど、そんな生徒のひとりが冗談半分で本書を読んでみて、いつのまにか夢中になって読み終えて、教師の言うことは本当だったと告白しちゃうわけだ。それってけっこう感動的だと思ったんだよ。一読書家としてね。こういうことになると、僕はからっきし弱いんだ。

 僕は古典的名作とか、ベストセラーとかいった本はあまり読まない。だってさ、そんな誰もが読んでますよ、有名なんですよ、みたいな宣伝をされている本なら、わざわざ僕が読んで書評なんかしなくてもいいじゃないか。なんといってもベストセラーなんだし。でも、すれっからしの高校生がそこに自分自身を見出すような展開を示されると、やっぱり気になっちゃうんだ。つまりさ、僕は本書を読むきっかけが欲しかったんだろうね。

 本書はホールデン・コールフィールドという少年が「去年のクリスマス前後に僕の身に起こったとんでもないどたばた」について、「君」という対象に語りかける形で進んでいく。ところでこの語り手なんだけど、通っていた学校を退学処分になっていたんだ。しかも本書を読んでいくとわかってくるんだけど、それが一度や二度のことじゃないみたいなんだ。つまりね、彼は学校で勉学に励むことに、これっぽっちも興味がなかったんだよ。でもね、それってちょっとばかり同情しちゃうところもあるんだよね。何しろ彼以外の兄弟姉妹は、誰も頭がいいみたいなんだ。兄のDBはハリウッドで小説を書いているし、弟は神童と呼ばれるほど学業は優秀だった。弟はずっと前に白血病で死んでしまっているんだけどね。誤解されると困るから言っておくけど、ホールデンはそんな兄弟姉妹たちのことを嫌っているわけじゃない。ただね、ちょっとたまらない気持ちになるってこと、君にも少しはわかるんじゃないかな。

 彼は未成年だけど、背は高いほうだし、頭には白髪まで生えちゃってる。だから、彼はけっこう歳をごまかしてバーで酒を飲んだり、煙草を吸ったりする。でもしょせんは子どもだから、けっこう子どもっぽいことをしでかしたりするんだよ。たとえば、どうせ退学になったからという理由で、突発的に寮から飛び出していったりね。家に戻るのはまだ先のことなのに、そんな後先考えない行動をしちゃうんだよ。やれやれ、まったくしょうがない奴だよね。しょうがないと言えば、彼のとる行動はたいていカッコ悪いことばかりなんだ。娼婦をホテルに呼んだのに、セックスする気になれなかったり、それでいてお金をぼったくられて、おまけに妙に反抗的で余計なことを言ったりして、痛い目にあったりとかさ。それに、彼はよく嘘をつく。どこか性格がねじれているんだよね。友達のことも、先生のことも、両親や恋人のことも、ことあるごとにどこか皮肉っちゃうんだ。世の中はしょせんこんなもんだ、という気持ちがどこかにあるんだろうね。でもさ、たとえばミサで賛美歌を聴いていて、その歌い手たちが歌い終えたあと、楽屋でプカプカ煙草を吸っている、なんてことを想像していたりしたら、そうなっちゃうのも仕方がないんじゃないかな。

 そこで僕は、『フリーダム・ライターズ』に出てくる、本書を読んで自分のことを見出した女の子のことを思い出した。ホールデンは学校を退学になった。それって、それまでつき合っていた学校の友人たちと離れてしまって、容易には会えなくなることでもあるわけだ。本当なら、別れを惜しんだりといった場面があってしかるべきだと思うんだけど、そんなことは本書のなかでは起きないんだ、まったくね。まるで誰もホールデンのことなんか気にもとめていないみたいなんだよ。たまらなく惨めな気分になるよね、自分が誰からも必要とされていないと感じちゃうのはさ。きっと『フリーダム・ライターズ』の女の子も、そんな気持ちに共感したんだろうな、と僕は思ったんだ。もしかしたらひとりよがりな考えかもしれないけど、一冊の本を通じてひとりのすれっからしの高校生の気持ちを汲み取れるというのは、なかなかできないことなんだよ。とくに僕みたいに、もうずっと前に学生じゃなくなって、会社で働いてお金をコツコツと稼いでいるような身分にはさ。

 僕は『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルだった本書は読んだことはない。だけどね、少なくとも本書にかんしては、より原作がもっている雰囲気に近づいたんじゃないかと思うんだ。それって嬉しいことだよね、一読書家としては。

 僕の話はこれでおしまい。もし話そうと思えば、ホールデンがどこでどんな言動をとったのか、誰と出会ってそこで何が起こったのか、本書の重要なテーマが何で、著者はなぜ本書を書こうと思ったのか、そういう話をすることもできる。でもどうも気が乗らないんだな。ほんとの話。今のところそういう話をしようという気持ちになれないんだ。ぶちまけた話、本書について何をどう考えればいいのか、僕にだってつかみきれないんだよ。僕にとりあえずわかっているのは、これまでの『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルが受動的なのに対して、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の「キャッチャー」が能動的な意味をもっているってことくらいだね。だから君もこの書評から何かを探り出そうとしないで、黙って本書を読んだほうがいいぜ。きっと僕の言いたかったことが実感できるからさ。(2007.11.24)

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